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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震発生時の事を一度両親に聞いた事があります。今となっては、もっと聞いておきたかったなと思うのですが、そうもいかんようになってしまいました。
で、地震発生時なのですが、父親は既に起きていて、1階の四畳半の居間の炬燵で本を読んでいたそうです。そこに地震発生、食器棚とか本棚とか倒れてきたようなのですが、丁度父親の座っているところがエアポケットのような感じで何も倒れてこず、気が付くと倒てきたモノに囲まれて座っていたそうです。確かに会った時は怪我もなくピンピンしてたしなぁ…そんな事もあるんかと思いました。で、母親なんですが、2階で寝てたそうです。
そこに地震、箪笥上部が倒れてきたそうです。ただ、母親が言うには「貧乏で良かったわぁ、箪笥の中空やったから軽くて何とかできた、服入っていたら危なかったわぁ。」まぁ、助かったから良かったのですが、貧乏が原因で助かったって…ちょっと複雑な心境になりました。地震が収まった後、1階の父親からの声が聞こえたそうで。「何でもええから履けるだけの靴下履いて降りてこい!」だったそうです。確かにあの室内で裸足は危険だったと思いますが、良く父親そんな事言ったなと感心しました。どうにか脱出して、近所の人と生き埋めになった人助けたって言ってました。確かに、実家の近隣では亡くなった方いなかった気がします。その後、近所の人と一緒に住吉幼稚園に避難したそうです。
住吉幼稚園は指定の避難所では無かったのかもしれませんが、近所ではそう言う運用になっていたのでしょうか?
明るくなり、皆一度家に戻ったそうです。そして幼稚園に戻って来た時には、皆片手に炊飯器持ってたそうです。生き残ったからの食糧だったと思います。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
まずは生き残る事
地震後に実家に入ったのですが、靴を脱いで入れる状況ではありませんでした。
両親、良く足怪我せず脱出できたと思います。
割れた食器なんかあると危険です。
体で最も守らなければならないのは、頭部だと思うのですが、頭部の次は脚だと思います。
避難したくても動けなくなってしまいますから。
先ずは、生き残る事を考える、行動することが大事だと思います。
つづく…。

現在、私の枕元にある、防災用スリッパです。
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日の話②
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震、長く感じた地震が収まりました。ベッドの中で、「今の何?これが地震?」まだ何か起こったのかよく理解できぬまま、とりあえずテレビつけてみました。ここで初めて近畿地区で何か大きな地震が発生したらしい事が理解できました。ただ、大きな地震など経験した事が無かったので、どのような被害が発生しているのかなんて、全く想像できませんでした。また、早朝に発生したため、報道機関も情報入手が困難だったのでしょうか、詳しい被害状況についてはまだ報道されていませんでした。
ここで覚えているのは、各地の震度が報道され始めたのですが、何故か神戸だけ震度が出ていませんでした。「あれ?なんで神戸だけ震度出ないんやろ?」不思議に思いながらテレビを見ていたら神戸の震度がでました。神戸震度6…「はぁ?震度6?やばい!!」私の実家は、神戸市東灘区の住吉ってところにありました。実家と言っても、築40年以上の木造の5軒長屋です。当時は両親だけが住んでいました。木造のボロ長屋、両親無事なんか?あれが地震に耐えられるんか?。私の心に暗雲が垂れ込め始めました。
電話
私は急いで、寮に1台だけある公衆電話に向かいました。当時はまだ携帯電話は、さほど普及しておらず、私も、両親ももっていませんでした。
実家に電話をかけてみました。
「トゥルルルルー、トゥルルルルー。」まだ回線がパンクする前だったのか、この時数回電話しましたが、電話は繋がりました。けど、誰も電話にはでませんでした。
「電話が鳴るっちゅーことは、電話は無事、でも何で誰もでーへんねん?」私の頭の中パニックになってきましたが、このあと回線がパンクしたのか電話は繋がらなくなりました。
両親は無事なんか?実家はいったいどないなっているのか?私の心の暗雲が更に広がっていきました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
公衆電話

当時は、携帯電話が今の様に普及しておらず、固定電話、公衆電話が主流でした。
で、この公衆電話なんですが、これは「災害時優先電話」なんです。
輻輳(ふくそう)が発生しても繋がり易いんです。私の実家への電話が当初繋がったのも
回線が地震で切れなかったってのもありますが、公衆電話から掛けたことも電話が繋がった要因だったのかもしれません。
※輻輳(ふくそう)交換機の一定時間内に処理できる能力を越える電話が集中することにより発生するいわゆる「電気通信網の渋滞」のこと。
公衆電話について少し注意しておきたいのが、
・公衆電話は、停電しても使用できますが、その場合テレホンカードは使用できません。
使えるのは、小銭(10円・100円)だけです。ちなみに、100円ではおつりでません。
緊急時を考えると、少しくらい小銭は持っていた方が良いかもしれませんね。
・公衆電話は停電しても小銭があれば使えるのですが、どうも電話機の小銭が貯まるところが小銭でいっぱいになると使用できないようです。(当時のわたしの経験です。)
今の子供たちは、公衆電話の使い方しらないらしいってニュース見た事があります。
公衆電話の使い方知ってて損は無いと思います。
つづく…。
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
熊本地震の被災地はどうなっているのか?
熊本地震から1か月が経過しました。熊本県のホームページの情報によると。
(8月28日8:00現在)では、避難所への避難者数:2,442名(23日発表−359名)
その内八代市:1,313名。(23日発表−211名)避難者の53.8%(23日発表54.4%)が八代市と言う事になります。避難所数:66、その内八代:38 避難所の57.6%が八代市です。
(8月23日8:00現在)では、現在でも避難所への避難者数:2,801名、その内八代市:1,524名。避難者の54.4%が八代市と言う事になります。避難所数:61(23日発表−5)、その内八代:37(23日発表−1)避難所の60.7%(23日発表57.6%)が八代市です。
1,524名÷38=40 八代市では1避難所に平均40名に方が避難している事になります。
熊本県全体では、2,442÷66=37 1避難所当たり平均37人が避難している事になります。
八代市では、1,313人÷37=35.5人。氷川町が、避難者数204名に対し避難所数3になっています。204÷3=68…。(23日発表から避難者−3人、避難所数±0)県全体と比較しても復旧が進んでいない感じがします。氷川町の避難所(どこの避難所かはしりませんが)は、高市総理が視察したのが確か氷川町の避難所でした。
その時に会談した被災者の発言が、
「避難所は食料品や色々な物資にしても至れり尽くせりで」
「避難所の生活に不満はなく、本当に至れり尽くせりです」
「冷房もきいててベッドも全員にね」
でした。本当に、言われている通り、至れり尽くせりな避難所なので、被災者が避難所から出ないのでしょうか?
正直言って「分からない」のです。総理視察以降これと言った情報を得る事ができませんでした。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
人間は忘れる生き物
熊本地震から約1か月。何故か急に情報が出て来た感じがします。
政府が支援策を発表した影響でしょうか?
ライフラインはかなり復旧してるようです。
SNSも一部避難所の画像がアップされていました。
どこの避難所か不明ですが、ほぼ1か月前と変わらない雑魚寝状態でした。
1か月振りの情報、人は忘れる生き物です。地震から約1か月情報が無いと、忘れます。
ましてや、その間、千葉県や石川県で大雨で大きな被害が発生しています。その報道は、どんどん流されています。意識は、そっちに流れます。そう、熊本地震は過去のものになってしまっているのではないか?危惧してしまいます。そうならないためにも、情報、報道は継続して流す必要があると思うんです。人は忘れるんです。
つづく…。
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
情報収集
今から約31年前の阪神淡路大震災時、まだ携帯電話は今ほど普及していませんでした。
私も携帯電話持ってませんでした。固定電話が主流だったと思います。最初は会社の寮の電話から実家の電話。最初は繋がったのですが(両親は避難してて不在でした)直ぐに輻輳が発生したのか繋がらなくなりました。他に連絡手段はありませんでした。今なら、一人1台は携帯電話持っているでしょうし、インターネットが普及し、SNSもあります。被災地の家族等連絡手段は様々あると思います。私も後から知ったのですが、「公衆電話」今では殆ど見る事ないですが。これは停電していても小銭があれば繋がり易い「緊急電話」だそうです。ただ、小銭の入るスペースがいっぱいになると使えなくなるようですが。
被災地の状況を知るにも、今で言うオールドメディア、テレビ、新聞、ラジオだったと思います。後は、被災地までの交通手段が整えば「自分で見る」でしたでしょうか?
現在よりも情報収集の手段は限られ、また情報のスピードも遅かったんです。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
情報は隠される事がある。
熊本地震から約1か月経過しようとしています。
震度7の地震、熊本県のホームページ(8月23日8:00現在)では、現在でも避難所への避難者数:2,801名、その内八代市:1,524名。避難者の54.4%が八代市と言う事になります。避難所数:66、その内八代:38 避難所の57.6%が八代市です。
1,524名÷38=40 八代市では1避難所に平均40名に方が避難している事になります。
で、その避難所での取材にルールがあるようで、八代市のホームページでは
取材に関するルール
1.許可される取材活動
(1)建物外からの撮影・取材
・避難所建物の外側からの写真・映像の撮影、取材は可能です。
・駐車時や撮影時は、避難所の運営や避難者の皆さまの生活に支障が生じないよう、ご配慮ください。
(2)許可を得た上での避難者へのインタビュー
・避難者へのインタビューを希望する場合は、事前に八代市災害対策本部の許可を得てください。
・インタビューを行う際は、対象者本人の同意を必ず確認してください。
・ロビーなどの共有部分(避難者がいない場合)などで取材ください。
2.禁止事項
・避難所建物内での撮影(動画・写真)は禁止します。
・避難者の生活スペースではいかなる取材活動も禁止します。
3.注意事項
・許可を取っていない人の映り込みには注意ください。
とあります。確かに被災者のプライバシー保護は重要だと思いますが、
避難所内の撮影禁止では、避難所が未だ雑魚寝状態なのか?改善されたのか?また、避難所にクーラーは設置されたのか?等避難所の改善状況の報道が出来にくいのではないか?
また、避難者に対しても、
「8月3日、各避難所に『避難所内での写真撮影に関する注意喚起』ということで、ポスターにして掲示させていただきました。おもな内容としては、避難所生活を含む避難所内の無断撮影と、そういった写真をSNSなどに投稿することへの注意喚起です。
ほかの自治体でもあったのですが、避難所内で撮影した写真に、意図せずほかの避難者の方が写り込んでいて、それに気づかず投稿して、結果としてその方のプライバシーが侵害されてしまうという事案がありました。
もちろん、SNSの利用そのものを禁止しているわけではありません。あくまでも、避難者のみなさんのプライバシー保護を最優先に考えた、写真撮影と写真投稿についてのお願いということです。プライベート空間で撮影した写真の投稿であれば問題ありません」
一定の縛りがあるようです。
何か、報道の規制が効いている感じがします。
穿った見方をすれば、八代市ではありませんが、高市総理が熊本を視察した時に会談した被災者の発言なのですが、
「避難所は食料品や色々な物資にしても至れり尽くせりで」
「避難所の生活に不満はなく、本当に至れり尽くせりです」
「冷房もきいててベッドも全員にね」
まぁ、やらせって言う噂もありますが、この発言と実際の避難所が違う状況となると、隠したくなりますかね?
いくら情報伝達手段が発達しても、意図的に隠されると、何位役にも立たない気がします。
つづく…。
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
熊本地震
熊本で大きな地震が発生しました。
2026年7月28日16:27
規模 マグニチュード7.1
震源の深さ 16㎞
今回も最大震度7が観測されました。
どうも、過去の地震に比べると報道が少なく感じます。
取り合えず熊本県のホームページの情報(8月16日8:00時点)
死者:39名(これは前回から変化無)
避難者:3,159名 避難所:79か所
避難者数がほぼ半減しているのですが、これは「避難所に避難」した人が減ったのであり、
避難所以外に避難した方はいると思います。
熊本県は電気は復旧しています。しかし、避難所になっている小中学校の体育館にはエアコンがありません。総理が視察に行った中学校だけは設置されたようですが…。
断水は続いているようで、この暑さの中での雑魚寝状態、プライバシーの保護もあったもんじゃない。
自衛隊も熊本県知事から災害派遣要請が活動しているようですが、これもどうも報道が無い。
熊本県の被災地から遠く離れたところに住んでいる私には、熊本の被災地で何が起こっているのかよくわからないのである。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
情報
被災地で何が起こっているのか?被災者が困っている事は何なのか?
地震大国日本である。何時、自分の身のも起こるかわからいないのである。
熊本で起こっている事は、他人事ではないのだと思うのだが、あまりにも世にでる情報が少なすぎる気がします。真偽のほどは定かではないが、SNSで避難所の雑魚寝状態の動画投稿すると動画消されると言う噂がある。知られてはいけないことでもあるのでしょうか?
被災地には寄り添える事はできるのである。その為にも、被災地の実情を国民全体で共有できるようにしてほしい。それだけである。
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
再び熊本で地震
前回、10年前の熊本地震からの復興について書いたのですが…。
また、熊本で大きな地震が発生しました。
2026年7月28日16:27
規模 マグニチュード7.1
震源の深さ 16㎞
今回も最大震度7が観測されました。
10年前の熊本地震では、震度7の地震が2度発生、2度目の震度7が本震とされており
4月14日の地震は日奈久断層帯の北端部の活動、16日未明の地震は布田川断層帯の活動によるもので、隣接する二つの断層帯が連動することで発生した連動型地震とみられてい
ます。今回の地震は、地震活動域の付近には布田川・日奈久断層帯が存在し、地震活動は主に日奈久断層帯の高野 – 白旗区間および日奈久区間に沿って分布しており、震源断層は日奈久区間の北東部および高野 – 白旗区間の一部に達するとみらており、どうも10年前のの地震の割れ残りの部分で地震が発生したようです。
現在の被害状況は、8月8日10:00現在、死者39名負傷者209名。
住宅被害全壊:699棟 半壊:1045棟 一部破損:7,171棟 合計:8,915棟
熊本県での避難者:6,573名
今回の地震では、八代市の製紙工場で煙突が倒壊し、9名が死亡。
残念なのが、宇城市にあるショッピングモールで、地震発生後、来店客を含めい一度避難ができたようなのですが、一部テナントで幹部から従業員に「売上を金庫に入れて欲しい」との指示があり、本来、避難後にモールの戻るにはモール側の許可がいるそうなのでその辺りの経緯は不明なのですが、テナントで働いていた従業員がモールに戻り、地震発生から約1時間20分後の17時50分頃、ガス爆発が発生、7名が死亡しました。ガスはどうもモールで使用していたLPガスが地震で漏れ出し、それが何らかの着火源によって爆発に至ったとの見方をしているそうです。何か、二次被害と言うか、テナントの会社の危機管理がどうなっていたのか、亡くならなくて良かった方が亡くなってしまったのは残念です。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
地震大国のはずが、何ら進化してない。
多くの方が、避難所に避難しています。小学校の体育館。雑魚寝されているのが報道されています。「まだ、これなのか?」私の両親が経験した31年前の阪神淡路大震災、否、
1923年9月1日、約103年前に発生した関東大震災時と、全然変わっていない。
体育館にはクーラーありません。熊本でも最高気温が40度超える事があります。
避難していても、熱中症の危険があります。この国の政府は関東大震災時の時を維持しようと言う「現状維持システム」でもあるのでしょうか?
このままでは、能登半島地震の時のように、災害関連死が災害で亡くなられた方を大きく上回ってしまうのではないか?政府もクーラーの必要なのは、分かっているのではないかと思います。8月3日、高市総理が被災地を訪問、氷川中学を訪れたそうですが、この中学校の体育館にはクーラーは無かったのですが、総理訪問の1日に設置されたそうです。
ついでにダンボールベッドも…何をかいわんやである。
自助で助かった生命も公助がこれでは、助かるものも助からなくなると思います。
公助、進化して欲しいものです。
つづく…。
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
熊本地震後の益城町
2016年4月14日午後9時26分の「前震」、そして約28時間後の16日午前1時25分に起きた「本震」です。短時間のうちに震度7の揺れが同一地域で連続して発生したのは、観測史上初めてのことだそうです。
特に被害の大きかった益城町では、町全体に甚大な被害が及びんだそうです。
益城町の主な被害状況(2025年12月時点)
人的被害: 直接死 20人、震災関連死 25人、重傷 135人
住家被害: 全壊 3,026棟、大規模半壊・半壊 3,233棟、一部損壊 4,325棟
最大避難者数: 16,050人(10避難所にて記録)
町内の家屋の98%が被災し、公共施設や道路、水道といったインフラにも深刻なダメージを受けました。この影響は人口にも及び、震災後の一年間で約1,500人もの人々が町を離れる事態となったそうです。
その益城町なのですが、地震から10年後どうなっているかと言うと、26年3月末の人口は34,442人に回復しました。もともと熊本市に隣接するベッドタウンであり、空港、高速道路のインターチェンジがあり、熊本県の「空と陸の玄関口」と呼ばれていたそうです。
益城町はこのリソースを復興に利用できたのでしょう。企業誘致を積極的に行い、地震後に20社以上が町内に拠点を置いたそうです。当然転入者が増え、人口が回復した。
隣の菊陽町には半導体のTSMC熊本工場が出来、大津町には半導体関連拠点エア・ウォーターグループ熊本事業所が開所と、熊本地震から10年、復興は進んでいるようです。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
復興と言ってもそれは一概には言えない
まぁ、と言って復興がうまく行っていない事もある。
24年に能登半島地震が起きた石川県の奥能登地域(輪島市、珠洲市、能登町、穴水町)は26年2月末時点での人口が49,926人と地震前から14%減っている。
能登半島地震はまだ2年しか経過してませんから、10年の熊本単純には比較できませんが、
益城町には、空港、高速道路のインターチェンジと言うリソースが元々あり、企業を誘致できるだけの土地もあったのでしょう。そこは奥能登地方との大きな違いだと思います。
大規模地震後の復興は、どこも同じ事でできるわけでは無いと言えると思います。
奥能登地方には、日本海という豊富な漁場と景色があります。後は、やはり山、人口減少を逆手にとって、不要な家屋等は自然に還す。それが100年後にその景色は大きな財産になると思います。復興は、それぞれの地域の持つリソース、ポテンシャルを元に長期スパンの視線も必要ではないかと思います。
つづく…。
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
地震大国日本のはずが…
4月20日、三陸沖を震源とするM7.7の地震が発生し、政府は「北海道・三陸沖後発地震注意情報」を発表しました。発表後1週間はM9に迫る「後発地震」の可能性がある内容で事前防災を呼びかけるものでした。2025年12月の青森東方沖地震でも出された2度目だそうです。で、この後発地震の情報を受けて、「水や食料等備蓄を確認した。」26.5%。7割以上の方が、情報を受けても、災害時の為の備蓄を確認しなかった事になる。
「直ぐに逃げられる態勢を維持した」15.9%。8割以上の方が避難について何も心配しなかったという事でしょうか?「特に何も行動はとらなかった」22.9%。前回(何時かは不明ですが)19.7%だったそうですから、何もしなかった人が3.2%増加しています。
東日本大震災からも早15年、あの災害ですら風化されていこうというのでしょうか?
内閣府が、令和4年と同7年に調査した事の抜粋ですが、
大地震に備えて、どのような対策をとっているか聞いたところ、「停電時に作動する足元灯や懐中電灯などを準備している」を挙げた者の割合が51.3%(前回−2.9%)「食料・飲料水、日用品、医薬品などを準備している」46.1%(前回+5.3%)「家具・家電などを固定し、転倒・落下・移動を防止している」37.6%(前回+1.7%)「近くの学校や公民館などの避難場所・避難経路を決めている」37.0%(前回+1.5%)「特に対策は取っていない」と答えた者の割合が13.5%(前回−0.4%)
日本は世界の0.25%の国土面積に比して,マグニチュード6以上の地震回数20.8%。小さな地震大国と言えるでしょう。しかし、食料等の備蓄でさえ半数にも至っていない。
何もしていない人…日本の人口は約1億2,500万人ですから、1億2,500万人×13.5%=約1,700万人弱の人が何も対策をしていない計算になります。
南海トラフ地震や首都直下地震の被害想定で死者数も想定されていますが、この状況を見ると、想定を超える死者数になるのではないかと危惧してしまいます。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
今からでも遅くは無い
何時起こるか分からない大規模災害に対しての対策、空振りになるかもしれません。
しかし、生命は一度亡くしてしまうと終わりなんです。
地震が発生すると、行政も警察も消防も自衛隊も被災するんです。
建物の耐震化は進んでいるので、建物の倒壊自体は過去の大規模地震に比べ少なくなるかもしれません。しかし、揺れるんです。部屋は。止まるんです、水道、電気、ガス。
直ぐに、助けは来ないんです。発災直後は、自分に身は自分で守るしかないんです。
生き残りたいのならば、平時からの「自助」の準備をお勧めします。
つづく…。
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
エアコン
統計データ見ると、1995年阪神淡路大震災のあった年のエアコン普及率は、77.2%だったそうです。現在はっと言うと、2024年で91%。但し、これには北海道が57%。とかまだ普及していない。(それでも2010年では普及率11%だから急激に普及してる事になる。)東京都等都市部での普及率は95%だそうですから、神戸も同じ程度でしょうか?要は、日本でエアコン何で生活するのはかなり苦しいと言えると思います。
「暑いんです!!」私の子供の頃は、家にエアコンありませんでした。(これは、ただ実家が貧乏だったからかもしれませんが…。)それでも、凌げてた。扇風機で何とか凌げてた。やはり地球温暖化の影響でしょうか?
今、南海トラフ地震や首都直下地震が発生したらどうなるのだろうか?
建物の耐震性は進んでいるので、阪神淡路大震災時よりも建物の倒壊は少なくなるかもしれません。但し、暫くは電気、水は止まる。自宅避難であるうと、避難所に避難したとしても、暫くはエアコン無の生活になる。外気温が30度、否今では40度でもおかしくない。どれだけ耐えれるのだろうか?現在のマンションは密閉性が高い、また防犯上ドア開けっぱなしの人も、まずいない。私も狭いマンション住まいであるが、水はある程度備蓄しているが、暑さの対策は正直無策だ。
熱中症の約4割は、屋内で発生してるそうです。災害が無くてもです。
電気復旧するまで、どうやり過ごすか?頭が痛い…。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
地球温暖化対策は防災対策になる
やはり根本的に温暖化対策が夏場の防災対策になるのではないか?と思います。
しかし、都市部では木陰が減っているそうです。
例えば、東京23区では樹冠被覆率が2013年の9.2%から2022年には7.3%に低下し、公共用地と民有地の両方で大きな減少が見られているそうです。木陰の減少は、夏の路面温度の上昇や歩行者の体感温度の上昇に直結しており、健康リスクの増大を引き起こす可能性があります。また、街路樹の伐採や管理コストの増加が影響を与えているとされています。温暖化よりも管理コストが優先されているのしょうか?
東京の都心地域における緑地比率は21.4%であり、OECD37か国の平均46.3%の半分以下であり、各国首都のなかではチリのサンチャゴの11.9%、メキシコのメキシコシティの18.1%に次ぐ低さとなっているそうです。緑地が少ないのだ。
管理コストは確かにかかるのでしょうが、人口減少、空家問題解決には、都市景観、温暖化対策にも都市部での生態系の復旧は重要な気がします。
つづく…。
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
地震大国
今年に入ってからも地震は発生してるわけで、震度5弱以上の地震を調べてみたのですが
1月6日 島根東部:震度5強
4月1日 茨城県南部:震度5弱
4月18日 長野県北部:震度5強
4月18日 長野県北部:震度5弱
4月20日 三陸沖:震度5強
4月27日 十勝地方南部:震度5強
5月15日 宮城県沖:震度5弱
5月20日 沖縄本島近海:震度5強
6月16日 茨城県南部:震度5弱
6月25日 岩手県沖:震度6強
6月26日 山梨県東部・富士五湖:震度6弱
6月28日 岩手県沖:震度5弱
月2回は震度5弱以上の地震が発生している事になります。
今月なんて4回だからほぼ週1で発生している。
少し気になるには、関東以北での発生が何故か多いように見えます。
まだ今年半年です。これからも何処かで地震は、発生するのでしょうが
準備は平時のしておくものです。
以前にも書きました、寺田寅彦さんの言葉
「天災は忘れた頃にやってくる」んです。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
自助
31年前の阪神淡路大震災、多分、私が生まれて初めて体験した地震があれだったと思います神戸で地震が起こるなんて夢にも思いませんでした。それも、あんな大きな地震。当然、私の実家の地震の備えなんてしてなかったと思います。ただ、当時はまだ、第二次世界大戦を経験した方がまだまだ元気だった。自然災害ではありませんが、「生命の危機」を経験し生き延びてきた人がいた。だから、震災直後、隣近所で倒壊した建物から救助するって事も自然にできたのではと思います。まだ、共助の力が大きかった。
さて、今、南海トラフ地震や首都直下地震が発生したらどうなるのだろうか?
既に、大戦の経験者の多くは亡くなり、ご存命でも後期高齢者。
役所も被災するので、直ぐに公助を期待しても無理がある。また、最近は隣近所との付き合いも希薄になってきています、つまり共助の力は低下しています。
ただ、建物の多くは新耐震基準のものが多くなってきていますので、阪神淡路大震災時よりも建物の倒壊は少なくはなるでしょう。阪神淡路大震災で亡くなられた方の多くは地震直後の倒壊等により圧死、窒息死だったので、それは避けられる可能性が高い。
と、なると頼れるのは、「自分」。まずは、自助の対策を考えて欲しいと思います。
つづく…
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
人工
能登半島地震後の2年間で、奥能登4市町(輪島市、珠洲市、能登町、穴水町)の人口が7777人減少したそうです。石川県が発表した人口推計によると、奥能登の人口は、2024年1月1日と比べ14・1%減の4万7436人。地震発生後の1年間から減少ペースは鈍化してきていますが、人口流出に歯止めが掛からず、自治体は住まいや生業の再建に取り組んでいる。
4市町の直近の1年間(25年1月1日〜今年1月1日)の減少数は3099人。地震直後の1年間(4678人減)と比べ、減少は落ち着いたが、地震前となる23年の1年間より約1・6倍減っている。
2年間の人口減少数を市町別で見ると、輪島が3499人で最も多く、珠洲2149人、能登1433人、穴水696人と続いた。
珠洲は24年1月1日の1万1721人から9572人に減り、減少率は18・3%。輪島は2万1903人から1万8404人に減り、同16・0%となった。能登町は10・0%、穴水町は9・5%だった。3方面が海に面した半島、山岳地が多いようで、仮設住宅建設のに適した土地も少ない様で、地震の被害が、過疎化、少子高齢化に拍車をかける形になったようです。この状況からの復興・復旧はどうすれば良いのか?
甚だ、暴論であるが、
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
自然の返そう
能登半島の本来の生態系については知らないのですが、人の住まなくなった土地、否市町村レベルでも、もはや維持ができないのであるならば、本来の生態系に戻す、自然に人間が開発した土地を返す事も考えても良いのではないか?天然の自然えはないが、百年後、否、数十年後にはその景色が新たな観光資源になるのではないか?
豊かな海に囲まれた能登半島、山の自然環境を本来の生態系に戻せば、それは海の生態系にも好影響を与えると思う。自然環境に戻すために、そこで自然環境復旧事業が始まる。どれくらいの予算になるのか、皆目わかりませんが、百年スパンの復興事業もあって良いのではないか?と思うんですがね?
つづく…
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震災備忘録
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう31年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
熊本地震
2016年4月14日21時26分、熊本県熊本地方を震央とする震源の深さ11 km、気象庁マグニチュード (Mj) 6.5、モーメントマグニチュード (Mw) 6.2の地震(前震)が発生し、同県の益城町で震度7を観測した。
その28時間後の4月16日1時25分には、同じく熊本県熊本地方を震央とする震源の深さ12 km、Mj7.3、Mw7.0の地震(本震)が発生し、西原村と益城町で震度7を観測した。Mj7.3 は1995年に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)と同規模である。震度7の地震が立て続けに発生し、二度目の地震が本震だったと言う、ちょっと珍しいパータンの大規模地震でした。
一度目の地震では耐えられた建物も二度目の地震で倒壊と言うこともあったようです。
震度7の地震が短期間で2度も発生するなんて、多分これも「想定外」だったのでしょう。この地震からも今年で10年が経過しました。
熊本県の調査によると、家屋被害は全壊が約8,600棟、半壊約34,700棟。熊本県では最大48,000人近くが仮設住宅に入居したそうです。亡くなられた方は、大分県含めて278名(2025年4月現在)。ただ、この内約8割は、避難生活の疲労等を原因とする災害関連死だそうです。阪神淡路大震災では、殆どの方が地震直後に建物倒壊等での圧死、窒息死だったので、災害関連死はどうして増加しているのか?今後の災害対策の肝になるのではないかと思います。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
天災は忘れた頃にやってくる
科学者で随筆家の寺田寅彦による言葉です。
地震にはある程度周期があると言われていますが、その周期は人間に寿命を遥かに超えた長い周期だと思います。そんな地震があった事など忘れてしまうんです。
先人が、石碑や文献を残したモノもありますが、バイアスがあるのか?
「自分の時期は大丈夫、何百年に1回なんだからって」寺田寅彦さんは、こうも書いています。
「こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。」
現在、忘れる暇が無いくらい地震が発生していると思うんですが…。
つづく…