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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震発生時の事を一度両親に聞いた事があります。今となっては、もっと聞いておきたかったなと思うのですが、そうもいかんようになってしまいました。
で、地震発生時なのですが、父親は既に起きていて、1階の四畳半の居間の炬燵で本を読んでいたそうです。そこに地震発生、食器棚とか本棚とか倒れてきたようなのですが、丁度父親の座っているところがエアポケットのような感じで何も倒れてこず、気が付くと倒てきたモノに囲まれて座っていたそうです。確かに会った時は怪我もなくピンピンしてたしなぁ…そんな事もあるんかと思いました。で、母親なんですが、2階で寝てたそうです。
そこに地震、箪笥上部が倒れてきたそうです。ただ、母親が言うには「貧乏で良かったわぁ、箪笥の中空やったから軽くて何とかできた、服入っていたら危なかったわぁ。」まぁ、助かったから良かったのですが、貧乏が原因で助かったって…ちょっと複雑な心境になりました。地震が収まった後、1階の父親からの声が聞こえたそうで。「何でもええから履けるだけの靴下履いて降りてこい!」だったそうです。確かにあの室内で裸足は危険だったと思いますが、良く父親そんな事言ったなと感心しました。どうにか脱出して、近所の人と生き埋めになった人助けたって言ってました。確かに、実家の近隣では亡くなった方いなかった気がします。その後、近所の人と一緒に住吉幼稚園に避難したそうです。
住吉幼稚園は指定の避難所では無かったのかもしれませんが、近所ではそう言う運用になっていたのでしょうか?
明るくなり、皆一度家に戻ったそうです。そして幼稚園に戻って来た時には、皆片手に炊飯器持ってたそうです。生き残ったからの食糧だったと思います。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
まずは生き残る事
地震後に実家に入ったのですが、靴を脱いで入れる状況ではありませんでした。
両親、良く足怪我せず脱出できたと思います。
割れた食器なんかあると危険です。
体で最も守らなければならないのは、頭部だと思うのですが、頭部の次は脚だと思います。
避難したくても動けなくなってしまいますから。
先ずは、生き残る事を考える、行動することが大事だと思います。
つづく…。

現在、私の枕元にある、防災用スリッパです。
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日の話②
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震、長く感じた地震が収まりました。ベッドの中で、「今の何?これが地震?」まだ何か起こったのかよく理解できぬまま、とりあえずテレビつけてみました。ここで初めて近畿地区で何か大きな地震が発生したらしい事が理解できました。ただ、大きな地震など経験した事が無かったので、どのような被害が発生しているのかなんて、全く想像できませんでした。また、早朝に発生したため、報道機関も情報入手が困難だったのでしょうか、詳しい被害状況についてはまだ報道されていませんでした。
ここで覚えているのは、各地の震度が報道され始めたのですが、何故か神戸だけ震度が出ていませんでした。「あれ?なんで神戸だけ震度出ないんやろ?」不思議に思いながらテレビを見ていたら神戸の震度がでました。神戸震度6…「はぁ?震度6?やばい!!」私の実家は、神戸市東灘区の住吉ってところにありました。実家と言っても、築40年以上の木造の5軒長屋です。当時は両親だけが住んでいました。木造のボロ長屋、両親無事なんか?あれが地震に耐えられるんか?。私の心に暗雲が垂れ込め始めました。
電話
私は急いで、寮に1台だけある公衆電話に向かいました。当時はまだ携帯電話は、さほど普及しておらず、私も、両親ももっていませんでした。
実家に電話をかけてみました。
「トゥルルルルー、トゥルルルルー。」まだ回線がパンクする前だったのか、この時数回電話しましたが、電話は繋がりました。けど、誰も電話にはでませんでした。
「電話が鳴るっちゅーことは、電話は無事、でも何で誰もでーへんねん?」私の頭の中パニックになってきましたが、このあと回線がパンクしたのか電話は繋がらなくなりました。
両親は無事なんか?実家はいったいどないなっているのか?私の心の暗雲が更に広がっていきました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
公衆電話

当時は、携帯電話が今の様に普及しておらず、固定電話、公衆電話が主流でした。
で、この公衆電話なんですが、これは「災害時優先電話」なんです。
輻輳(ふくそう)が発生しても繋がり易いんです。私の実家への電話が当初繋がったのも
回線が地震で切れなかったってのもありますが、公衆電話から掛けたことも電話が繋がった要因だったのかもしれません。
※輻輳(ふくそう)交換機の一定時間内に処理できる能力を越える電話が集中することにより発生するいわゆる「電気通信網の渋滞」のこと。
公衆電話について少し注意しておきたいのが、
・公衆電話は、停電しても使用できますが、その場合テレホンカードは使用できません。
使えるのは、小銭(10円・100円)だけです。ちなみに、100円ではおつりでません。
緊急時を考えると、少しくらい小銭は持っていた方が良いかもしれませんね。
・公衆電話は停電しても小銭があれば使えるのですが、どうも電話機の小銭が貯まるところが小銭でいっぱいになると使用できないようです。(当時のわたしの経験です。)
今の子供たちは、公衆電話の使い方しらないらしいってニュース見た事があります。
公衆電話の使い方知ってて損は無いと思います。
つづく…。
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
震える犬から解放された私は実家を見に行くことにしました。
震災のあった日は、実家の長屋の路地を倒壊した倉庫か塞いでいましたが、
綺麗に更地になっていました。有難かったです。
家の入口の前に行きました。ドアは開いたままでした。
家の中を覗きました。震度6か?部屋の中ってここまでぐちゃぐちゃなるんか…。
驚きました。靴履いたままでないと入れません。よくこの状態でまだ夜明け前の暗い中倒壊した倉庫も乗り越えて脱出できたなと、驚くばかりでした。
冷蔵庫、洗濯機は横倒しになっていました、四畳半の居間の隅に鎮座するテレビ、今と違ってブラウン管の大きな重いテレビこいつは微動だにせずその威容を誇っているように、荒れた部屋の中にありました。このテレビ故障も無く、その後も使う事になります。
日本の家電恐るべしです。
私は取り合えず、あるモノを探しました。当時は今と違いスマホなんて無く、各家庭に黒いダイヤル式の固定電話がありました。で、その近くに親戚とかの電話番号を記載してある電話帳があるはずです。実家も電話置いてる台の引き出しにあったはず。まず、親戚達に両親の無事を連絡するためにそれを探しました。電話を置いている台、電話はありませんでした。
引き出しの中はどうか?薄暗い部屋居間のなかで引き出しの中に手を突っ込み中のモノを出してみました。「あった!」目当の電話帳無事発見できました。
さて、どうやって連絡するか?公衆電話は繋がるらしいのは身をもって知ったので、取り合えず、近くの公衆電話に行ったのですが、10円玉入れようとしても中がいっぱいなのか入らず使えませんでした。どうしたもんか?そういえば隣町の御影にNTTがあった事思い出しました。そこならなんとかなるんちゃうか?淡い期待を持ち、NTTに向かいました。
すると、NTTの前の歩道に机が出されておりその上に何台かの電話が並べられていました。有難かったです。NTTが電話を出してくれていました。まだ余り人が並んでなくて
私、親戚へ電話し、取り合えず、両親の無事を連絡する事ができました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
安否確認
大きな災害があった場合は、人名最優先。安否の早期の確認が重要になると思います。
電話ですが、大規模な災害が発生すると電話会社が行政等の回線を確保するため規制します。そこに大量の通信が来るため「輻輳」(いわゆる回線パンク)が起こり電話が繋がりにくくなります。ただ、規制が行われる前なら、メールより電話の方が早く連絡できる可能性高いと思います。メールの場合、一度サーバ経由してそこから送信になりますが、電話は直節なので、その分早く連絡できます。ただメールの方が輻輳は起こりにくい、またSNS等の方がメールよりも繋がり易い例もあるようです。
平時から複数の連絡媒体での連絡方法を作っておいた方が良いと思います。

実家から掘り出した思い出の絵葉書
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
教室に敷き詰めれらた布団の真ん中は踏まないように歩き、両親が座っていいる所につきました。リュックを下ろし、持ってきた水、缶詰を渡しました。私の目的の一つは達成した感じでした。そんな時、父親が言いました。「良く来たな、まぁ取り合えずビール飲むか?」
えぇ、えぇ、えぇ、えぇ、えぇ?ビール??
父親は缶ビール1本持ってました。
いやぁ、いやぁ、いやぁ、いやぁ、いやぁ、アカンやろ…休みに実家帰ってきたんとちゃうんですけど…。
私「そのビールどないしたん?」
父親「家から掘ってきた。」
おいぃ、おいぃ、おいぃ、おいぃ、おいぃ、掘るんなら他にあるやろぉ・・・。
父親「酒は大事や。」
父親はのビールを残し「ちょっと家見てくる。」と言ってその場を去りました。
母親と私の間にポツンとビールが布団の上に鎮座してました。
流石に飲めませんでした。
そんな時、ふと横を見ると、掛布団が盛り上がってました。
誰か、寝てはるんや、大きな声だしたらアカンな、と思いました。
教室で雑魚寝状態、お互いその辺は気を配らななと思いました。
すると、その布団がめくれ上がり、小学校低学年位の男のが起きてきました。
で、そこ子だけだと思ったら、犬がね、白い中型犬が寝てました。
その子が何処かに行きました。暫くして、犬が目を覚ましたんです。
男の子が居ない事に驚いたのか、キョロキョロ周りを見て、あの男の子を探していました。
居ない…。どうすんのかな?と思っていたら、犬と目が合いました。
犬がにじり寄って来ました。撫ぜてあげようかな?思った時。
犬は、私の着てたセーターを咥え、両方の前足で私の胴をガッチリホールドしたまま、
ブルブルと震えだしました。誰も居ないので不安になったのか?
ちょっと驚きましたが、私は、犬の頭を撫ぜ続けました。
噛んだセーター、中々放してくれません。どうしたものか?と考えているところに
あの男の子が戻ってきました。犬は男の方に戻りました。
犬もショック受けてんのかな?と思いましたが、一週間後に避難所に行った時には、あの犬んですがね、私に見向きもしませんでした…。なんでやねん…。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
被災は人間だけでは無い
私は動物を飼った事はないので、大きな地震発生後どうすれば良いのか?は知っていなにのですが、あの犬の事を思い出すと、動物も何らかのショックを受けているように思います。
またあの頃は、人と同じ布団に犬がいましたが、今は困難な気がします。
ペットの生命は飼い主が守らなければなりません。
ペットを含めた緊急時の対応を立てておく必要があると思います。
つづく…。

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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
多分、19日か20日か?今度は支援物資を少しでも届けたいという思いで現地に向かう事にしました。しかし、いったい何をどうやって運べば良いのか?
まずはリュックサック買うところからでした。
地震や災害対策は何もしていなかったわけです。経験なかったですし。
次にリュックサックと一緒に手袋を買った記憶があります。何か軍手では心もとなく、革製の手袋を買いました。
さて、何が運べるのか?何が必要とされているのか?まず思いついたのは「水」でした。
ペットボトル数本確保できました。食料・・・さて何が良いものか?保存の効く食料?いかんせん知識が無く、缶詰くらいしか思いつきませんでした。ただ、1個や2個もっていっても「すずめの涙」気休めにはなるか?何か数個缶詰買いました。
朝、堺の会社の寮を出発、途中で自分用のおにぎりをコンビで買い、まずは電車で梅田まで。
大阪以西への鉄道は、西宮辺りまでは動いていました。阪急・JR・阪神どれにするか?
特に理由があるわけでは無く、阪急を選びました。行けるのは、「西宮北口」まで。幸運にも電車では座る事ができました。西宮北口からは両親が避難している住吉幼稚園までは徒歩で十数㎞歩く事になります。少しでも体力温存できたのはラッキーでした。
西宮北口着、天気は晴れ。ここからは、西に向かって歩くのみ。道路は瓦礫が散乱していました。家を片付けている方もいました。途中、休憩で買っていたおにぎりを食べました。
食欲は、発災時と違いあったようです。
多分、昼頃か?住吉幼稚園に到着しました。
幼稚園の教室が避難場所になっています。
足の踏み場も無いくらい、布団が敷かれていました。教室の真ん中当たりに両親がいました。しかし、この光景、37年後に同様な光景を能登で展開されているとは、この既視感は、あまり感じたく無いものです。
両親のところに行きました。ここでの父親の言葉が…。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
もう、想定外とは言えない。
私の両親は幸運にも無事でしたが、多くの方が、阪神淡路大震災で亡くなれました。
その後も、東日本大震災等、大きな地震が日本では発生しています。
世界に占める日本の国土面積の割合は、約0.25%と言われていますが、マグニチュード6.0以上の地震の回数の約22.9%は、この小さな島国で発生しているそうです。
日本は、地震大国と言えると思います。そのために、日本の企業は過去から地震対策を行ってきたと思います。例えば
・従業員用にヘルメット等防災用品の備蓄をする。
・帰宅困難な従業員用に水や食料の備蓄をする。
・従業員の負傷防止のためキャビネット等の転倒防止策を講じている。
・地震等発生した場合のマニュアルを作成している。
・定期的に訓練をしている。
等です。
上記は全て会社に従業員が出社している事が前提となっている対策であると思います。
では、コロナ後はどうか?
新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり、テレワークの方が増加しています。
これは、経営陣から組合員まで、自宅で業務をしているときに大規模地震等発生した場合
被災する可能性が高くなると思います。
テレワーク時に阪神淡路大震災のような直下型地震が発生したらどうなるか?
オフィスの様な対策が出来ている家庭がどれくらいあるのでしょうか?
食料、水の備蓄?確かに大事だと思いますが、
これには「私は、災害が発生しても無事生きている。」という前提がると思います。
どうして「生き残る事ができる。」と言えるのか?
その為には、生き残るための準備が必要であると思います。
身を守る場合、「頭」を守る事が重要であると言われています。(2番目が足だそうで)
自宅にヘルメットある家庭がどれくらいあるでしょうか?
身を守れなければ、死んでしまえば、食料も水も役に立たないんです。
まず、自分の身、家族の身を守る事を最優先で考えて欲しいと思います。
また、新型コロナ発生後、改めて復旧策の検討する必要があると思います。
人命救助は「発災後72時間が勝負」とされています。
新型コロナ発生以後は、かなり対応が厳しくなる事が想定されると思います。
感染予防しながらの対策、災害とパンデミック両方を同時に考えなければならないと思います。
避難所を開設できても、今迄より収容人数は少なくせざろう得ないと思います。
今迄以上に「自助」のウエィトが重くなってくると思います。
自然災害につては、原則「自助」であると思いますが、企業が事業を継続するうえで、
一度、地震対策について見直す必要があると思います。
つづく…。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月18日の話②
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震の翌朝、実家はえらい事になってました。
どうやって脱出したんやろって思いました。
とにかく、両親の無事は確認できたわけで、取り敢えずの私の目標は達成できた事になりました。とは、言うものの「ここから先、ここに居て私何できるねん?」が私の正直な気持ちでした。体一つで被災地に入ってしまい、何かしようにも何も思いつきせんでした。実家から何か取り出せるかとも思いましたが、
入口になってる路地は長屋前の倉庫が倒壊して、ちょっと入るのは困難でした。
その実家なんですがね、築40年位の木造の5件長屋でした。間取りは、1階は4畳半一間と台所、お風呂、トイレ。2階が6畳、3畳二間。この古い木造の長屋が倒壊しなかったんですよね。(すぐに赤い紙は貼られましたけど)倒壊しなかった可能性の一つが思いついたのは、この後数十年後のお話しです。
結局、私は一度会社(大阪)に帰る事にしました。このまま居ても足手まといになると思いました。そこから数時間かけて会社に戻りました。上司に両親の無事を伝えました。
どうも私が神戸に向かった後、会社で従業員の安否の確認をしていたらしく、1名不明となっていたそうで…私でした。今なら通信手段もあるんでしょうけど…それ以前に会社に連絡するってとこまで頭回って無かったのが正直なところでした。
上司は「今日は、もう帰って休め」と言われ、私は、何とか会社の食堂で残っていた昼飯にありつけました。1月16日の晩飯後、最初の食事でした。特に空腹を感じることが無かったのは気が張っていたせいでしょうか?
堺の寮に帰宅の途につきました。電車の車窓からは何事もなかったような平和な景色が流れていました。さっきまでの神戸の風景が「何か悪い夢でもみてたんかな?」と思いました。
寮につき、新聞読みました。記事の詳細は忘れてしまいましたが、確か伝言板の様な紙面がありました。「部屋空いてますから使ってください」とか「毛布送ります」とか、現実に引き戻されました。張っていた気も緩んでいたんでしょうか?私は寮の部屋で一人、記事を読みながら泣いていました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
傷つくのは身体だけでは無い。メンタルも傷つきます。
私もそうだったのですが、震災直後、最初は気が張っていて大丈夫そうに見える人もいるのですが、メンタルは結構やられてます。だから、気がプチっと切れる前に、メタルのケアが出来る人も、災害時には必要かなと思います。
私がNLPを学んだのもしのせいだったかもしれません。
つづく・・・。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月18日の話①
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
ガスタンクの爆発は防げたようで、避難は解除になりました。
住吉小学校は避難所だとは言え、知っている人が誰もいない…。
流石にこれは「無いはぁ~どっか別っとこやろこれ」と思ったのです。
私は避難所の小学校に戻るのを止めて実家の方に向かうことにしました。
実家の近くまで来ると初めて知っている人に会う事ができました。
幼馴染のお父さんでした。私「両親探しに来たんやけど、行方分からないんです。」
幼馴染のお父さん「大丈夫、無事や一緒に避難してたんや。もうすぐ下りてくるから。」
両親達もガスタンクの件で山の方に避難していたようでした。
それから数分後、やっと両親に会えました。
母親はかなり疲労しているようでしたが、怪我も無く無事でした。
父親も無事で母親よりは元気そうでした。
ただ、父親の会った第一声が「どないしたんや?何かあったんか?」でした。
イヤ、イヤ、イヤ「何かって…」あまりの普通すぎる反応に、目が点になってしまいました。
私はその後何を何をしゃべったか…覚えていません。
両親や近所の方々は指定避難所ではなく、近所の住吉幼稚園に避難していました。
指定の避難所ではなかったようですが、どうも何かあった時はその幼稚園に避難するってなっていたようです。実家からは歩いて1~2分の場所にあります。
私は卒園児です。確か、私が通園時に木造から鉄筋2階建に立替られましたので、1971年建替えだから旧耐震の建物なのですが大丈夫だったようです。
昨夜その辺りも歩いたのですが全く気付きませんでした。人気は無かったと思います。
私の頭には、避難所=住吉小学校だったので、全くの盲点になっていたのでしょう。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
情報のバージョンアップ
私の両親等、実家近隣の住民が避難していた住吉幼稚園なのですが
残念ながら平成31年3月31日に閉園になっていました。
(卒園生としては寂しいのですが)
指定避難所では無かったとは言え、近隣住民にとってこれがあったから助かったと思います。しかし、現在はありません。つまり次に神戸を大きな災害が発生した場合は、
別の避難所を決めていないとダメだと言うことです。
情報のバージョンアップは必須です。
つづく…。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日の話⑧
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
しばらくして夜が明けてきました。
多分6時頃だったと思いますが、
突然「避難してください!」という声があちこちで聞こえだしました。
「えっ?避難所から避難?どうゆう事?」
避難した避難所から避難しろとは?
原因は、浜の方のガスタンクの爆発の可能性があり、
爆発した場合、避難所は被害がでるとのことでした。
避難所が若干ざわつきました。
急いで避難する被災者の方達。
前日震災で大きな被害に会いここでガスタンクの爆発なんて・・・洒落になりません。
私は何故か意外と冷静でした何かバイアスがあったのでしょう。
「ほんまかいな?洒落になってへんなー。親探しに来て探している方が死んでまうか?おいおい冗談じゃないよ。」って。
私も避難されている方々と歩いて避難をしました。
ガスタンクは御影の浜の方にあるらしく、北の方へ避難しました。
確かJRの線路を超えた駐車場へ避難したと思います。
この時、他の避難した人々を見回したのですが・・・私の知っている人は誰もいませんでした。
「いくら何でも誰も知っている人がおらんとは・・・。」
ここで初めて私「両親や近所の方がは、どこか他に避難できるとこがあったんちゃうか?」と思ったわけです。
アホです、我ながら。ここに至るまで気付かんとは・・・。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
認知バイアス
何の準備もなく被災地に向かった私には、あまりにも情報が不足していました。
そのため、避難場所=住吉小学校(中学校は遠いので無い)と警察で教えて頂いた情報一択になっていました。「住吉小学校しか避難する所無い!」と思い込んでしまっていたんです。
私の意識の中に「他に避難できる場所はないか?」という考えが判断ができなくなっていました。現在は当時と違い情報へのアクセスは容易になっています。ハザードマップ等正確な情報源を普段から用意しておいた方が良いと思います。

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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日の話⑦
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
東神戸病院を後にした私は、暫く当ても無く暗い街中を彷徨っていました。
「どないしたらええんや?」頭のなかで呟いていたのが正直なところです。
自分では冷静だと思っていたのですが、結構頭の中混乱していたのでしょう。
いつの間にか、私は住吉小学校に戻っていました。
状況は変わりようもなく、停電した暗い講堂、教室に多くの避難された方がいました。
ただ、一部教室では、石油ストーブを使っていました。
私もストーブにあたりたかったのですが、被災している人のことを考えると・・・。
私はストーブのある教室に入るのは止めました。
しかし、寒かった。
私のこの時の服装は、タートルネックのセーターの上にジャンパーという軽装でした。
多分、零時頃だったと思います。
夜中に避難所で大声で両親を探すのは、実際に避難している人達を見ると憚られました。
寒かったのですが、私は廊下で明るくなるのを待つことにしました。
私は、体育座りで廊下に座りこみました。
流石に眠れませんでした。寒くてじっとしてられなく、時々立ち上がり足踏みしながら、
「はよ明るくならんかな?」なんて考えていました。
明るくなると・・・思いがけない事が起こってたんですよね。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
生命の危機を経験した方がまだまだ元気だった。
そう、それは、第二次世界大戦(太平洋戦争)です。
終戦が1945年でしたから、阪神淡路大震災は、終戦から約半世紀後となります。
まだ、戦争を知っていいる方がかなりご存命、それも結構元気な方が多かったんです。
自然災害とは違いますが、神戸も大空襲があり、街が破壊される、生命の危機を経験した方がまだ多くいらっしゃったんです。また、実際に戦地に行き復員された方もいらっしゃったと思います。そうした経験が、被災後の活動に生かされたのかもしれません。
そう言えば、私の父親は、予科練に行ってたって聞いた事があります。
今では、戦後77年、ご存命の方も後期高齢者、今後、南海トラフ地震地震や首都直下地震が発生した場合、大きな災害未経験の方が多いと思います。生命の危機にどう立ち向かうのか?心配な今日この頃です。
つづく…。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日の話⑥
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
私は、住吉小学校に向かいました。私の母校です、1973年に創立100周年記念行事がありましたね。あっ!今年で150周年か?閑話休題、流石に校舎は新築されていて、そりゃまー立派な校舎になっていました。ここに避難してたら無事かなって思いました。
私は薄暗い廊下を通って講堂に行きました。講堂のドアを開けたのですが・・・、薄暗い講堂の中一面に布団が敷かれた様な状況で入口を開けてもそこに布団があり誰かが眠っていました。建物は無事なようですが、足の踏み場も無く、私は、講堂入室を諦め他の教室も見て回ったのですが、同じ様な状況でした。ここで気づけばよかったのですが・・・。
私「両親以外、近所の人にも誰も会っていなかったのです。」ここで気づけば私はもっと早く両親に会えたと思います。
私は、この状況じゃ、住吉小学校で両親探すのは困難と思い、東神戸病院へ行くことにしました。寒くて暗い道、瓦礫が所々にある道を、トボトボと一人東神戸病院へと向かいました。東神戸病院に着きました。病院は非常電源があったのでしょうか?電気が点いていたと思います。ロビーは、怪我人でいっぱいでした。私、かなりごたついていた受付に向かい「すみません、○○というのですが、両親探しにきたのですが・・・。」私受付の看護婦の方の返事に固まってしまいました。
「あちらの壁に亡くなられて人の名前を貼っていますのでそれを見て下さい。ご遺体は、向かい側の公民館に安置しています。あー○○って苗字確かあったかな?」
私は、その亡くなれた人の名前が張り出されている壁に向かいました。「まさかなー、警察は亡くなった人おらんって言ってたし・・・でも、さっき看護婦さん名前あったって・・・。」
私、半分気は動転していたかもしれませんが、壁に貼られている名前を見ました。探したくありませんでしたが、両親の名前を探しました。結果は・・・ありませんでした、しかし似たような苗字はあったので、看護婦さんも間違えたのでしょう。
私、途方にくれ階段に座りこみました。暫くすると岡山県の医療機関からの救援物資が届きました。物資を下ろす人が少なく、私は物資を下ろすのを手伝いました。
物資下ろし終わった後、私が階段に座りこんでいると、看護婦さんが(さっきの人とは別の人ね)「毛布いかがですか?」と先ほどの救援物資で届いたのでしょう
毛布を差し出してくれました。しかし、私は被災者でも無く、この病院にはもういる理由もありません。私は、丁重に断り病院を後にしました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
緊急避難場所

提供:神戸市
住吉小学校は現在でも緊急避難場所に指定されているようです。
避難所の運営等については私も防災士の資格取るときに学びましたが、
阪神淡路大震災、東日本大震災、先般の能登の地震、避難所の在り方が
外国と比べても殆ど進化していない感じがします。
(多分、関東大震災も同じ感じではなかったかと思います。)
プライバシー保護、災害弱者への対応等、これだけ大きな地震を経験した国が
いつの間にか、災害後進国になってしまった気がします。(あくまで、私見です。)
少子高齢化社会となった現在、また来るであろう、南海トラフ地震、首都直下地震を考えると、如何に人の生命を助けるか?箱もの作るだけでは無い気がします。
つづく…。
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日の話⑤
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
街中は停電中でした。夜ってこんなに暗いのかって改めて実感しました。
瓦礫が散乱していたせいか、車が走っているのを見た記憶がありません。
私は警察署、一番近い東灘警察署に行きました。
警察署の中も停電のせいか、石油ストーブと懐中電灯の明かりで、カウンターの奥の方にぼんやりと人影あるのが分かる感じでした。
私、カウンターの前で、「すみませーん。」奥から懐中電灯を片手に婦警さんが出てきてくれました。「どうしました?」と婦警さん。
私「あのー両親を探しに来たんですけど、行方がわからないんです。」
婦警さん私にメモを差し出しながら「こちらに、名前と住所をお書き下さい。」
私メモに父親の名前と実家の住所を書きました。
婦警さんはメモを受け取り「少しお待ち下さい」と言って、奥へ戻って行きました。
暫くして、婦警さんが戻って来ました。
「現在のところこの住所での亡くなられた人の届けは警察には来ていません。今はそれだけしか分かりません。」と婦警さん。
取り敢えずどっかで生きてはいそうである。内心少しホッとしました。
かと言って、どこに居るのか?
避難所?怪我してたら病院?ん?避難所って何処や?病院?どこ?
皆目見当がつきませんでした。
私、婦警さんに「避難所と救急病院はどこですか?」
婦警さん「避難所は、住吉中学校と住吉小学校です。救急病院は、甲南病院と東神戸病院です。」
私は、婦警さんにお礼を言い、警察署を後にしました。
さて、何所へ向かえば良いのか?
距離的に言って、住吉中学校と甲南病院はまずありえないと思いました。遠いです。
住吉小学校か東神戸病院かどっちかだ?
私は、取り敢えず住吉小学校に向かいました・・・。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
避難所

大きな災害なんて遭遇した事が無かったので、致し方無い面もありますが、
こうなった場合、どこに避難するか?なんて考えたことありませんでした。
その為、とりあえず現地に行けば何とかなるって言う、場当たり的な行動になってしまいました。しかし、日本人は阪神淡路大震災、東日本大震災等大きな災害を経験している以上、
もう「何も知りません」とは言えないと思います。知ってしまったのですから。
大きな災害が発生した場合、何処に避難するのか?平時に確認は必須だと思います。
今では、避難所の開設状況等もネットで検索できるようです。
つづく・・・。
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日の話④
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
私は原チャリで、神戸に向かいました。大阪市内は、あまり被害が無かったようで、道路自体は特に問題無かったのですが、大渋滞でした。原チャリでもなかなか進む事ができませんでした。今日中に辿り着けるのか?不安がよぎりました。
それでも、不慣れな運転ながら、国道2号線を西に進んで行きました。確かに見慣れた様な景色のはずなのですが・・・どう表現すればいいのか中々難しいのですが、西に進むたびに「見慣れた景色」が「見慣れない景色に壊れていきました。」それがどんどん酷くなっていきました。
西に進むたびに道路もかなり被害が見られました。かなり大きな段差があったりで、原チャリを押して進むこともシバシバでした。増してや、どんどん暗くなっていきます、暗くなるのと比例して心に立ち込めた暗雲がどす黒く圧し掛かってきました。
実家の近くに着いた頃には、辺りはまっ暗でした、確か7時を過ぎた頃だったと記憶しています。正直、実家の前に行くのは怖かったのですが、実家の前の最後の曲がり角を曲がりました。
実家は・・・建っていたというか、建たされていたというか・・・。隣にあった、ほぼ築年数は同じくらいのアパートは崩れていました、実家は5件長屋で奥から2軒目だったのですが、実家の前の路地は向かいにあった倉庫が潰れ完全に塞がれていました。
何か崩れる前に、両隣が先に崩れ土台を支えていたような・・・、その為なんとか倒れなかった感じでした。でも、すぐに「全壊危険」の赤い紙貼られましたけどね。
真っ暗の中にぼんやりと、家の陰影が浮かんでいました、ただそのあたり一体に人の気配が全くありませんでした。何度か原チャリのクラクションを鳴らしてみました。
しかし、人っ子一人反応がありませんでした。「ん?、とゆーことは、どこかに避難してるか?病院か?もしくは亡くなったか?」実家の状況には呆然としたのですが、もし生き埋めとかであれば消防とか人がいるか、その痕跡くらいはあるはず。それが無い。人っ子一人居ない。私は、実家の長屋全員が死亡したとは考えられず、暗闇の中に両親の安否に一縷の望みが見えた気がしました。
ただ、そうだとしても何処にいるのかさっぱりわかりませんでした。
「どうしたものか…?」
私は、取り敢えず警察署に行くことにしました。それしか思いつかなかったんです。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べ

提供:神戸市
安否確認
私は両親の安否が不明のため、阪神淡路大震災の被災地、神戸市東灘区に向かいました。
今なら、メールやSNS等で家族の安否を確認する事も出来ると思いますが、
1995年の携帯の人口普及率は、3.5%程度と言われているそうなので、携帯持ってる方が珍し時代であったと思います。また、災害伝言ダイヤル(171)ですがこれは電話の輻輳状態が5日間も続いた阪神・淡路大震災をきっかけに開発され、1998年3月31日から稼動を開始しなので、当時は無かったんです。当時は安否の確認が、私の様に無謀にも現地に向かうくらいしか無かったと思います。現在は、安否確認のシステムもありますし、災害伝言ダイヤルもあります。家族で安否確認の方法を決めておくのが良いと思います。その時は媒体一つに限定せず複数の方法(電話・携帯メール・SNS等)がお勧めです。
電話は輻輳前なら、メールより早いです。メールは輻輳がなさそうですが、東日本大震災の時は遅延が発生しています。SNSの方が繋がりやすかったようです。ただ、家族が高齢の場合どこまでできるのか?って事も考慮する必要があると思います。
媒体だけに頼らず、隣近所の関係が安否確認には重要なファクターになるとも思います。
つづく…。