• 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日の話②

    阪神淡路大震災とは 

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。 

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。 

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。 

    あれから、もう29年も経過したんですね。 

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私 

    地震、長く感じた地震が収まりました。ベッドの中で、「今の何?これが地震?」まだ何か起こったのかよく理解できぬまま、とりあえずテレビつけてみました。ここで初めて近畿地区で何か大きな地震が発生したらしい事が理解できました。ただ、大きな地震など経験した事が無かったので、どのような被害が発生しているのかなんて、全く想像できませんでした。また、早朝に発生したため、報道機関も情報入手が困難だったのでしょうか、詳しい被害状況についてはまだ報道されていませんでした。 

    ここで覚えているのは、各地の震度が報道され始めたのですが、何故か神戸だけ震度が出ていませんでした。「あれ?なんで神戸だけ震度出ないんやろ?」不思議に思いながらテレビを見ていたら神戸の震度がでました。神戸震度6…「はぁ?震度6?やばい!!」私の実家は、神戸市東灘区の住吉ってところにありました。実家と言っても、築40年以上の木造の5軒長屋です。当時は両親だけが住んでいました。木造のボロ長屋、両親無事なんか?あれが地震に耐えられるんか?。私の心に暗雲が垂れ込め始めました。 

    電話 

    私は急いで、寮に1台だけある公衆電話に向かいました。当時はまだ携帯電話は、さほど普及しておらず、私も、両親ももっていませんでした。 

    実家に電話をかけてみました。 

    「トゥルルルルー、トゥルルルルー。」まだ回線がパンクする前だったのか、この時数回電話しましたが、電話は繋がりました。けど、誰も電話にはでませんでした。 

    「電話が鳴るっちゅーことは、電話は無事、でも何で誰もでーへんねん?」私の頭の中パニックになってきましたが、このあと回線がパンクしたのか電話は繋がらなくなりました。 

    両親は無事なんか?実家はいったいどないなっているのか?私の心の暗雲が更に広がっていきました。 

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    公衆電話 

    当時は、携帯電話が今の様に普及しておらず、固定電話、公衆電話が主流でした。 

    で、この公衆電話なんですが、これは「災害時優先電話」なんです。 

    輻輳(ふくそう)が発生しても繋がり易いんです。私の実家への電話が当初繋がったのも 

    回線が地震で切れなかったってのもありますが、公衆電話から掛けたことも電話が繋がった要因だったのかもしれません。 

    ※輻輳(ふくそう)交換機の一定時間内に処理できる能力を越える電話が集中することにより発生するいわゆる「電気通信網の渋滞」のこと。 

    公衆電話について少し注意しておきたいのが、 

    ・公衆電話は、停電しても使用できますが、その場合テレホンカードは使用できません。 

    使えるのは、小銭(10円・100円)だけです。ちなみに、100円ではおつりでません。 

    緊急時を考えると、少しくらい小銭は持っていた方が良いかもしれませんね。 

    ・公衆電話は停電しても小銭があれば使えるのですが、どうも電話機の小銭が貯まるところが小銭でいっぱいになると使用できないようです。(当時のわたしの経験です。) 

     今の子供たちは、公衆電話の使い方しらないらしいってニュース見た事があります。 

     公衆電話の使い方知ってて損は無いと思います。 

     つづく…。 

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    地震発生時の事を一度両親に聞いた事があります。今となっては、もっと聞いておきたかったなと思うのですが、そうもいかんようになってしまいました。

    で、地震発生時なのですが、父親は既に起きていて、1階の四畳半の居間の炬燵で本を読んでいたそうです。そこに地震発生、食器棚とか本棚とか倒れてきたようなのですが、丁度父親の座っているところがエアポケットのような感じで何も倒れてこず、気が付くと倒てきたモノに囲まれて座っていたそうです。確かに会った時は怪我もなくピンピンしてたしなぁ…そんな事もあるんかと思いました。で、母親なんですが、2階で寝てたそうです。

    そこに地震、箪笥上部が倒れてきたそうです。ただ、母親が言うには「貧乏で良かったわぁ、箪笥の中空やったから軽くて何とかできた、服入っていたら危なかったわぁ。」まぁ、助かったから良かったのですが、貧乏が原因で助かったって…ちょっと複雑な心境になりました。地震が収まった後、1階の父親からの声が聞こえたそうで。「何でもええから履けるだけの靴下履いて降りてこい!」だったそうです。確かにあの室内で裸足は危険だったと思いますが、良く父親そんな事言ったなと感心しました。どうにか脱出して、近所の人と生き埋めになった人助けたって言ってました。確かに、実家の近隣では亡くなった方いなかった気がします。その後、近所の人と一緒に住吉幼稚園に避難したそうです。

    住吉幼稚園は指定の避難所では無かったのかもしれませんが、近所ではそう言う運用になっていたのでしょうか?

    明るくなり、皆一度家に戻ったそうです。そして幼稚園に戻って来た時には、皆片手に炊飯器持ってたそうです。生き残ったからの食糧だったと思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    まずは生き残る事

    地震後に実家に入ったのですが、靴を脱いで入れる状況ではありませんでした。

    両親、良く足怪我せず脱出できたと思います。

    割れた食器なんかあると危険です。

    体で最も守らなければならないのは、頭部だと思うのですが、頭部の次は脚だと思います。

    避難したくても動けなくなってしまいますから。

    先ずは、生き残る事を考える、行動することが大事だと思います。

    つづく…。

    現在、私の枕元にある、防災用スリッパです。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日の話③ 

    阪神淡路大震災とは 

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。 

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。 

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。 

    あれから、もう29年も経過したんですね。 

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。 

    その後の私 

    この時、鉄道・高速道路は全面ストップ。電話回線パンクしたのか会社にも連絡がつきませんでしたし、出社する事もできませんでした。 

    寮に居る人はテレビのある寮の食堂に集まっていました。 

    テレビでは被害の状況が刻々と報道されていました。 

    高速道路でギリ落下しなかったバス、倒壊した高速道路、火事…。 

    「高速道路って倒れるんや…高速道路が倒れる?…実家なんて…。」 

    「両親は無事なのか?実家はいったいどうなっているんや?」 

    心に立ち込めた暗雲が更にどす黒く重く圧し掛かってきました。 

    なんとか神戸に向いたかったのですが、「足」がありませんでした。 

    その時、同じ寮に住んでる後輩が車貸してくれました。 

    感謝です。 

    とりあえず、大阪市の福島にあった会社を目指しました。 

    道路は、高速道路が使えないため一般道で向かいました。 

    大大大渋滞でした、確か9時台には出発したと思うのですが、会社の近くまで来たのが、2時か3時かくらいだったでしょうか。 

    ラジオからは、神戸方面へはそれ以上の渋滞であり、道路もかなり破壊されていると放送されていました。 

    京都方面は、被害が少なかったのか、京阪電車の復旧は早く、当時の上司は会社に出勤していました。私は上司に実家の件を話しました。 

    上司も方々手を尽くてくれ、原チャリ(最初は自転車だったんですけどね)を確保してくれました。有難かったです、でも私、原チャリに乗ったことありませんでした…。 

    なんとか、動かし方だけ教えてもらい、神戸に向ったのでした。 

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。 

    提供:神戸市

    渋滞 

    堺から会社のあった大阪市福島まで普通なら高速使うと、30分程度で着きます。 

    それが、約5時間…です。一般道に特に被害はありませんでしたが、高速が通行禁止となったため、全ての車両が一般道に集中しました。これでは、緊急車両も通れません。 

    私自信が車使ってしまったので、大きな声では言いにくいのですが、大きな地震があった場合、(津波からの避難は別ですが)被災地周辺でも不要な車両の使用は控えた方が良いと思います。実際被災していない被災地周辺でも渋滞が発生する可能性は高くなりますから。 

    つづく…。 

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災

    1995年1月17日の話①

    阪神淡路大震災とは 

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。 

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。 

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。 

    あれから、もう29年も経過したんですね。 

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    提供:神戸市

    地震発生時の私 

    当時、私は会社の寮に住んでました。場所は堺市の大浜ってところです。 

    私、何故か目が覚めたんですよね。この日の5時40分頃に。 

    で、時計見て「あー後1時間くらい寝れるなー。」なんて思いながら、二度寝をしようとしたその時でした。「ゴー」って大きな音がしたんです。揺れは無く、音だけでした。 

    寮が国道に近かったので、ダンプか何かが抜け道で寮の前を通ってるのかな?なんて思ってました。「何やこんな時間に煩いな!」って。 

    と思った時、グラグラと地震が来ました。私、布団の中で動けませんでした。 

    ただ、じっと薄暗い部屋の中を見ているだけでした。多分、初めての地震です。 

    揺れの大きさより、揺れている時間の長さの方が記憶に残っています。実際、私の部屋では本が数冊倒れた程度でしたから。そう、まだこの時点では大地震が発生してるなんて思ってもいませんでした。 

    今となって、この数秒の経験にも気付きがあるのが分かるんですよね。 

    正常性バイアス 

     当時、私は大きな地震なんて一度も経験したことありませんでした。 

    「ゴー」って大きな音、これは、地響き、地鳴りの類だったのでしょう。しかし、私の脳は、 

    ダンプか何か大型車両の騒音と判断したんですね。地響き、地鳴りっていう情報が私の脳には無かったためかもしれません。有る情報の中から、平静を保つ為に脳が選択したんでしょう。これは、正常性バイアスの一種かもしれません。 

    予期しない非日常的な事態に遭遇した時、心の安定を保つために、目前の出来事を正常の範囲内だと認識しようとする心理が働いて、危険を過小評価し、危機回避のための行動を取らない、という風に心理学的には説明され、これを正常性バイアスと呼ばれています。 

     今、思い起こせば当時の自分の行動の原因が分かってきた気がします。 

    正常性バイアスの壁を超えるには? 

    今のところ体に覚えこませるような訓練しかないようです。 

    つづく…。