• 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    地震発生時の事を一度両親に聞いた事があります。今となっては、もっと聞いておきたかったなと思うのですが、そうもいかんようになってしまいました。

    で、地震発生時なのですが、父親は既に起きていて、1階の四畳半の居間の炬燵で本を読んでいたそうです。そこに地震発生、食器棚とか本棚とか倒れてきたようなのですが、丁度父親の座っているところがエアポケットのような感じで何も倒れてこず、気が付くと倒てきたモノに囲まれて座っていたそうです。確かに会った時は怪我もなくピンピンしてたしなぁ…そんな事もあるんかと思いました。で、母親なんですが、2階で寝てたそうです。

    そこに地震、箪笥上部が倒れてきたそうです。ただ、母親が言うには「貧乏で良かったわぁ、箪笥の中空やったから軽くて何とかできた、服入っていたら危なかったわぁ。」まぁ、助かったから良かったのですが、貧乏が原因で助かったって…ちょっと複雑な心境になりました。地震が収まった後、1階の父親からの声が聞こえたそうで。「何でもええから履けるだけの靴下履いて降りてこい!」だったそうです。確かにあの室内で裸足は危険だったと思いますが、良く父親そんな事言ったなと感心しました。どうにか脱出して、近所の人と生き埋めになった人助けたって言ってました。確かに、実家の近隣では亡くなった方いなかった気がします。その後、近所の人と一緒に住吉幼稚園に避難したそうです。

    住吉幼稚園は指定の避難所では無かったのかもしれませんが、近所ではそう言う運用になっていたのでしょうか?

    明るくなり、皆一度家に戻ったそうです。そして幼稚園に戻って来た時には、皆片手に炊飯器持ってたそうです。生き残ったからの食糧だったと思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    まずは生き残る事

    地震後に実家に入ったのですが、靴を脱いで入れる状況ではありませんでした。

    両親、良く足怪我せず脱出できたと思います。

    割れた食器なんかあると危険です。

    体で最も守らなければならないのは、頭部だと思うのですが、頭部の次は脚だと思います。

    避難したくても動けなくなってしまいますから。

    先ずは、生き残る事を考える、行動することが大事だと思います。

    つづく…。

    現在、私の枕元にある、防災用スリッパです。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日の話②

    阪神淡路大震災とは 

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。 

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。 

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。 

    あれから、もう29年も経過したんですね。 

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私 

    地震、長く感じた地震が収まりました。ベッドの中で、「今の何?これが地震?」まだ何か起こったのかよく理解できぬまま、とりあえずテレビつけてみました。ここで初めて近畿地区で何か大きな地震が発生したらしい事が理解できました。ただ、大きな地震など経験した事が無かったので、どのような被害が発生しているのかなんて、全く想像できませんでした。また、早朝に発生したため、報道機関も情報入手が困難だったのでしょうか、詳しい被害状況についてはまだ報道されていませんでした。 

    ここで覚えているのは、各地の震度が報道され始めたのですが、何故か神戸だけ震度が出ていませんでした。「あれ?なんで神戸だけ震度出ないんやろ?」不思議に思いながらテレビを見ていたら神戸の震度がでました。神戸震度6…「はぁ?震度6?やばい!!」私の実家は、神戸市東灘区の住吉ってところにありました。実家と言っても、築40年以上の木造の5軒長屋です。当時は両親だけが住んでいました。木造のボロ長屋、両親無事なんか?あれが地震に耐えられるんか?。私の心に暗雲が垂れ込め始めました。 

    電話 

    私は急いで、寮に1台だけある公衆電話に向かいました。当時はまだ携帯電話は、さほど普及しておらず、私も、両親ももっていませんでした。 

    実家に電話をかけてみました。 

    「トゥルルルルー、トゥルルルルー。」まだ回線がパンクする前だったのか、この時数回電話しましたが、電話は繋がりました。けど、誰も電話にはでませんでした。 

    「電話が鳴るっちゅーことは、電話は無事、でも何で誰もでーへんねん?」私の頭の中パニックになってきましたが、このあと回線がパンクしたのか電話は繋がらなくなりました。 

    両親は無事なんか?実家はいったいどないなっているのか?私の心の暗雲が更に広がっていきました。 

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    公衆電話 

    当時は、携帯電話が今の様に普及しておらず、固定電話、公衆電話が主流でした。 

    で、この公衆電話なんですが、これは「災害時優先電話」なんです。 

    輻輳(ふくそう)が発生しても繋がり易いんです。私の実家への電話が当初繋がったのも 

    回線が地震で切れなかったってのもありますが、公衆電話から掛けたことも電話が繋がった要因だったのかもしれません。 

    ※輻輳(ふくそう)交換機の一定時間内に処理できる能力を越える電話が集中することにより発生するいわゆる「電気通信網の渋滞」のこと。 

    公衆電話について少し注意しておきたいのが、 

    ・公衆電話は、停電しても使用できますが、その場合テレホンカードは使用できません。 

    使えるのは、小銭(10円・100円)だけです。ちなみに、100円ではおつりでません。 

    緊急時を考えると、少しくらい小銭は持っていた方が良いかもしれませんね。 

    ・公衆電話は停電しても小銭があれば使えるのですが、どうも電話機の小銭が貯まるところが小銭でいっぱいになると使用できないようです。(当時のわたしの経験です。) 

     今の子供たちは、公衆電話の使い方しらないらしいってニュース見た事があります。 

     公衆電話の使い方知ってて損は無いと思います。 

     つづく…。 

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    思い出の欠片

    ここまでは、私の当時の経験を主に書いてきましたが、思い出の場所なんかも無くなってしまったわけで…。特に、当時三宮にあった映画館はほぼ全滅になったのではなかったか?

    (あくまでも私の記憶なんで、無事だった映画館あったらごめんなさい。)

    10館くらいあった様な気がするのですが…。

    私が小学生の頃なんて、休み前になると、校門の前で映画の割引券配ってましたね。

    東宝チャンピオンまつり…ゴジラです。東映まんがまつり…仮面ライダー?ん?長くつを履いたネコ?三宮の阪急電車の高架下だっと思いますが、東宝と東映が向い合せでありましたね。三劇と三映でしたっけ?割引券片手にゴジラ見に行ってましたね。

    あっ阪急のビルの中にも3つ位映画館ありましたかね?放映中でも電車の音が良く聞こえるという…。神戸新聞会館、国際松竹、国際ニッカツ、う~む書いていて懐かしくなります。

    映画館としては残っていませんが、三宮センター街にあった三宮東映?確か今本屋さんになっていると思うのですが、ビジネス書のフロアだと思うのですが、細長く、少し階段のあるフロア…「あっ!ここが映画館やったんかな?」初めてその書店に行った時、そんな風に思った記憶があります。私の記憶の中で生き続ける、神戸の街並。忘れない内に書いておきたいと思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    復旧と復興

    震災当時、県なのか?市なのか?それとも国なのか?復旧を目指していたと思います。

    震災前の神戸に戻そうと。果たしてそれが良かったのか?復旧に数年費やしている間に、発展していた都市にどんどん抜かれて行ったのでなかったか?

    関東大震災時は「帝都復興院」が設立されました。復旧では無く復興です。

    首都と比較するのは難しいかもしれませんが、震災前よりも都市機能が向上した都市のグランドデザインを描けなかったのか?やはり、初めての大震災でそんな余裕はなかったのかもしれませんが、その語の東日本大震災、今年の能登の災害を見ていると、何か復興では無く復旧を目指している気がしてなりません。

    つづく…。

    56.8.8は、昭和56年8月8日か?三宮東映のゴム印です。

    吠えろ鉄拳、あの真田広之さん主演の映画です。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    平日の仕事、休日に神戸の実家に行く生活。大阪と神戸の街の様子のギャップは中々埋められるものではありませんでした。

    阪神電車が青木駅まで開通した時だったと思います。青木駅で降り、線路沿いの歩道を歩いていると、瓦礫の山がありました。そこに張り紙が一枚。「ゴミを捨てないで下さい。人が埋まっています。」やるせない思い。さっきまでの大阪が夢ではないか?と思えてしまう。

    ただ、全く復興が進んでいないわけでは無く、仮設住宅の建設が始まりました。

    現在は仮設住宅ができた場合、コミュニティ単位での居住を考えていますが、当時は完全抽選だったと思います。近所の方々が彼方此方の仮設住宅に決まる中、私の両親の仮設住宅の抽選が当たったのはかなり遅かったと思います。阪神青木駅に近くだったか?小高い小さな公園に建設された仮設住宅でした。四畳半一間、ユニットバス、キッチン。それだけ。

    正直、「狭いな」って思いました。まぁ、贅沢は言ってられません。これで、取り合えず生活再建の足掛かりはできたかと思いました。思ったんですが…。

    実家のあった長屋、取り怖される事になるのですが、その後に、大家さんの住宅と借家が出来るらしいのですが、家賃が数倍になるって事で、両親「それは無理や」って。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    生活再建

    何かここで初めて、公助が出てくる気がしますが、生活再建を考えなければいけません。

    経済状態は人それぞれでしょうから、再建のスタート位置は違うと思いますが、生きて行くためには、個人の力だけでは無理な気がします。街作り、生活の糧作り、これは官民協力して、今迄への復旧では無く、こうなった以上、今以上の良いモノにする考えが重要だと思いのです。

    震災で無くなった三宮にあった映画館、新聞会館のゴム印のある映画のチラシです。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    平日は普通に仕事して、週末土曜日は実家の片付けって感じでしたね、当時。

    まぁ、そのため同期の結婚式等に不義理した事もありました。申し訳ないと思っていますが、当時被災地の実家行っていると、そういう気持ちにはなれませんでした。

    閑話休題、赤い紙貼られた実家に入って、片付けるといっても、何れ取り壊されます。

    それまでに何ができるのか?電話帳、アルバム、あっ、母親が大事にしてたネックレスなんかは見つけたか?自分のもの…コミック?プラモデル?映画のパンフ?う~む、子供の頃の思い出の詰まったモノ。中々、それ担いでまた堺まで変えるには限界ありました。ただ、そんな事考えながら実家に入っていってたんですがね、実家の一階が何か違う。父親が片付けたのもあるでしょうし、何か使えるものを取り出したのかもしれないのですが、私が見つけて纏めて置いていた割れていない綺麗な食器が全て無くなっていました。まぁ、あまり悪い事は考えたくないのですが、そんな事あったのも事実です。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    知らないとは言えない。

    今は、南海トラフ地震や首都直下地震等、大規模地震の対策が声高に叫ばれていますが、当時は、私の記憶では無いです。当時、生まれて初めての地震が阪神淡路大震災だったと思います。それから日本は何回も大規模な地震を経験しています。「もう、知らない。」とは言えないと思います。少しでも災害時に生き残る術を身に着けておいてほしいと思います。

    簡易トイレ用に買った凝固剤です。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    どうも、あまり思い出せない事があります。

    「トイレ」です。被災地でどうしてたのか?どうも思い出せません。

    覚えているのは、いつ頃だったか、JR住吉駅前に仮設トイレが設置されていました。

    そこを一度使用した記憶はあります。工事現場とかに設置されているあれです。

    まぁ、かなり汚かったです。それを見て、我慢するようになってしまったか?

    両親が避難していた住吉幼稚園。ここでもトイレに行った記憶が無い。 ここは、多分、裏庭掘ってトイレにしていた気がするのですが、実際トイレに行っていないので定かでは無い。考えられるのは、当時平日は仕事。休日の一日を被災地の実家の片付けなんかで被災地に行ってましたので、実際に被災地に居たのは半日程度。被災地外でトイレに行っていたのか?う~む、なぜ記憶が無いのか?大事な事なんですがねぇ…。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    水とトイレ

    食料よりも、水とトイレの備蓄の方が重要ではないかと思っています。

    水、昨今の暑さ、災害無くても水分補給しないと危ないですよね?これで、大規模地震が発生して水道止って水分補給出来ないとなると…水の備蓄は重要だと思います。

    食料も大事だと思いますが、1日~2日食べなくても直ぐに死ぬ事は無いと思います。

    水分補給はそうはいきませんので。

    トイレなのですが、水道が止まると当然トイレも水流せません。無理やり流したとしても排水管が破損していれば後々、修理し治るまでトイレ使えない事になります。

    簡易トイレの備蓄は必要だと思います。

    一戸建てなら庭に穴掘ってってできるかもしれませんが…マンションならどうか?

    トイレの度に階段で降りて、どこかトイレ探す事になります。現実的だろうか?

    食事は我慢できても生理現象は我慢できません。トイレに行く回数減らしたいので水分補給へらすと、エコノミークラス症候群のになる可能性があります。

    確か、中越地震だったかで話題になったと思います。

    それだけ、水とトイレは重要なんです。

    つづく…。

    この黒い袋の中に折り畳み式の簡易トイレがあります。私の備蓄品です。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    少しはうろ覚えではあるが、今回も当時の仕事の事にも触れておきたい。

    いつ頃だったか、担当しているスーパーの本部から、神戸市内のある店舗の商品撤去の応援依頼が来ました。ヘルメット持参、飲食提供無しだったと思います。スーパーの店内がどうなっているのか?危険覚悟で行くことにしました。

    当然、車では行けませんので、大阪の弁天埠頭から船で行くことになります。

    船内は結構人がいました。競合社のセールスもいました。あぁ、この人も行くんやろなぁ、なんて思いながら、船内地べた座りで神戸港に着くのを待ちました。

    神戸港に到着、さてここからその店舗までどうやって行くか?仕事でタクシー使うなんて、当時の私の頭にはありませんでした。(下っ端だったんでね)歩きました。

    西市民病院の近くも歩きました。あぁ、ここか1フロア潰れた病院…地震の被害の凄まじさを目の当たりにすると、実家の事思い出してしまします。アカン、アカン仕事、仕事。

    自分に言い聞かせ、店舗に向かいました。店舗に到着。同じ船に乗っていた競合社のセールスは既に到着してました。私「もう着いてたんや、はやなぁ」相手「タクシー乗ったら直ぐですよ?えっ?歩いたんですか?」私「…」羨ましいかったです。

    店舗内に入りました。売り場は2階。階段で上がります。一部壁が崩れ空が見えてましたが

    木材で補強されていました。売り場でやる事は、兎に角、散乱した商品をかごに入れ台車まで運ぶでした。作業する人はそこそこいました。あまり大きな店舗では無かったので作業自体はスムーズに進みました。ただ、この集めた商品どうやって下すんやろ?あの階段は無理だと思うし、エレベーター止まってるし…。バイヤーがいたので、「これ、どうするんですか?」と聞くと「壁壊して、クレーンで下すんや」って。作業が終わり、店舗からでて隣の駐車場に行くと、クレーン車が止まってました。どうやって壁壊したかは記憶が無いのですが、壁壊したところからクレーンで台車ごと駐車場に止まっていたトラックに商品下してました。手際良かったと思います。作業は終わり、解散。

    また神戸港から(当然、徒歩ですよ)船で大阪に帰りました。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    自助

    災害では、住民だけでなく行政の機関も被災します。行政で勤務している人も被災するんです。まずは、自分の生命を自分で守る事が重要だと思います。自分が助かってないと他人を助ける事もできません。敢えて書くと。食料を備蓄しても、亡くなってしまったら何の役にも立ちません。まずは、生命を守る行動をしてください。生命を守る道具を備えてください。

    つづく…。

    提供:神戸市

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    少しはうろ覚えではあるが、今回も当時の仕事の事にも触れておきたい。

    姫路に辿り着いた翌日(着いたの午前1時頃だから当日か?)得意先に伺いました。

    大きな被害があった記憶は無いです。ただ翻意にしている得意先の方と話しをした時、私が「最初ゴーって音がして、その後揺れた。」って言ったら「一緒や!こっちの最初大きな音してそれから揺れた。」と。阪神淡路大震災については先に音が(何の音なのか?)してその後揺れた(地震が来た)と言うのはあったようです。

    営業車で担当していた販売店を巡回しましたが、大きな被害はなさそうでした。あっ長田で1件ありました。ごれはまた後日。

    さて、出張で姫路にいたのですが、金曜日になりました。大阪に戻らなければならないのですが、来たときのあの渋滞…帰れるのか?何か方法ないか?そんな時に新聞だったと思いますが、姫路港から大阪へ船が出てると。私は得意先の部長さんに、週末営業車を預かってもらえないか?お願いしました。経緯を説明すると承諾してくれました。感謝です。

    姫路から船で大阪(弁天埠頭だったか?)無事帰ることができました。

    その後、船は、明石、神戸と大阪との就航が増えて行ったと思います。

    で、その神戸での話なんですけどね。JRの神戸駅の前だったと思うのですが、駅前に仮設の案内所みたいなのがありました。私「大阪行きの最終に船は何時ですか?」案内所の人「6時です。」(私の記憶では)その時は5時頃だったと思います。私は、埠頭に向かい歩い行きました。埠頭に着くと船が一艘停泊していました。あっ!あれかな?私は停泊してる船に千近づいていきました。乗船しようかと思った時、よく見ると、高松行と書かれていました。

    危ない、危ない、乗ったら四国に行ってまうやん。しかし、他に船はありませんでした。

    遅れてるんかな?なんて考えていると、その船は出航していきました。埠頭には船が一艘もありません。えっ?どういうこと?私が、案内所で船の出航時間聞き間違えた?いや、そうでもなさそうで、私以外にも数人、立ち尽くしている人がいました。少し周りを見回してみると看板のようなモノがあるのに気づきました。近づいてみると、時刻表の様でした。

    大阪行書いてました。出航時刻を見てました。最終便:16時…。はぁ?6時じゃなく16時?えぇっ案内所の人6時って…。呆然としていると、私の後ろからも同じような反応がありました。やはり、私だけでは無かったようです。ただ、ここで立ち尽くして居るわけにはいきません。どうしたもんか?電車で帰るしかありませんが、電車に乗るには芦屋まで行かなければなりませんでした。そんな時ある方が「タクシー相乗りで芦屋まで行きませんか?」と。その手があったか。意外と簡単にタクシーはつかまりました。確か見ず知らずの3人でタクシーに乗り芦屋駅に向かいました。タクシーに車内では「6時って聞きましたよね?」「そうそう、えらい目にあったなぁ」「まぁこれでなんとか大阪までもどれますね」とか会話が弾みました。芦屋駅に着き散会。少し遅くなりましたが、大阪に戻ることができました。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    情報は最新のものを、偽情報にも注意。

    当時は情報と言えば、テレビ、ラジオ、新聞がメインでした。なかなか、情報が更新されたのを気づくのは難しかったと思います。現在はネットやSNS等最新の情報が入手できると思います。情報は最新のモノか確認する事が重要だと思います。

    後、真実では無い情報。あの案内所の人は故意では無かったと思いますが(何のメリットも無いですから)私以外にも6時と聞いた人がいましたから、何故か間違えたのでしょう。

    ただ、現在はSNS等で真実では無い情報をする人がいるようです。怪しいと思った時は情報元を確認する事が良いと思います。

    つづく…。

    提供:神戸市

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    少しはうろ覚えではあるが、当時の仕事の事にも触れておきたい。

    阪神間は被災で仕事どころでは無かったのですが、被災地より以西の地域

    例えば、姫路とか?会社では被災地以西の状況が今一掴めない感じでした。

    で、実は私はその被災地以西のエリアを担当していたわけで…(私だけでは無いですけどね。)上司から、状況確認の為にも行って欲しいと、断る理由は無かったのですが

    どうやって行けるのか?帰れるのか?

    中国自動車道は、西宮北インターからなら走行できる事がわかりました。「取り敢えず、行けるか?」次に宿泊。今みたいにネットでの予約なんてありませんでした。電話です。電話。

    電話掛けて予約です。常宿がホテルでは無く、姫路健康センターでした。とっくの昔に潰れたようですが、スーパー銭湯のはしりだったでしょうか?ちゃんと宿泊用の個室ありました。で、ホテルよりも部屋広く安かった。何無く予約できました。何か段々行けそうな感じになってきました。で、ある日朝9時過ぎ位だったと思います。会社を出ました。当時、私の営業車は会社から少し離れた所にあったので、途中コンビにより、たまたま、チョコとペットボトルのお茶買いました。本当、たまたまです。しかし、これが後々、役に立つとは思っていませんでした。で、営業車に乗り出発。西宮北インターまでは下道を走らなければならなかったのですが…出て数分で渋滞でした。全く進みませんでした。「いやぁ、これいったい何時姫路に辿り着けるねん?」昼頃はまだ大阪市内だったでしょうか?かと言って昼飯食べたくても、無理でした。買ったチョコが役にたちました。夕方、やっと宝塚近くまで来たのでしょうか?今みたいにナビなんて無いので地図で確かめるしかないのですが、西宮北インターが果てしなく遠く感じました。あっ、一つ私は謝らなければならない事をしてしまいました。どうしても、尿意に我慢できず、渋滞で車動か無いときに、立小便してしまいました。生理現象には勝てませんでした。この事については全く想定していませんでした。

    夜になりました。まだ西宮北インターに辿り着きません。かれこれ会社でて12時間は立ったでしょうか?ただ少しづつですが車の数は少なくなってきた感じはしてきました。

    午前零時近くだったと思います。西宮北インターにやっと辿り着きました。中国自動車道に乗れました。それが…メッチャ空いてました…。「今迄の渋滞なんやったんや?」不思議な感じでした。午前一時頃、姫路健康センターに到着しました。フロントの電気は消えてました。「もうアカンかなぁ?」自動ドア空きました、するとフロントから人が出てきてくれました。何とかチェックインでいました。ほっとしました。その時、フロントの人か「よろしかったらどうぞ」っておにぎりを作ってくれてました。嬉しかったです。感謝の気持ちしかありませんでした。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    トイレ

    ある意味、食料より重要かもしれません。生理現象は止められないですから。

    建物でも水が止まった場合、トイレで水で無理やり汚物流すのは危険です。

    排水管が壊れている可能性があります。修理に多額の資金と時間がかかる可能性があります。非常用のトイレは準備しておいた方が良いと思います・

    私は、我慢できず立小便をしてしまいましたが(ごめんなさい。)、姫路に着くまでの間のトイレについては全く想定していませんでした。

    当時と違い、コンビがトイレ貸してくれるかもしれませんが、渋滞中には…。

    つづく…。

    提供:神戸市

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995117日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    被災した実家から電話帳を探し出し、取り合えず親戚に両親の無事は連絡できた。

    さて、次に被災した自宅から何を探し出せば良いのか?

    やはり、「思い出」か?。頭に浮かんだのは写真のアルバムでした。

    ただそれがあるのは実家の2階のどこか…行けるんかな?

    モノが散乱して足の踏み場も無い居間から階段へ。登れそうだ。

    2階に辿り着く。階段の前は3畳間。私が子供の頃から使っていたオカムラジュニアデスク…あまり動かずありました。で、六畳間。母親の上に落ちてきたであろう箪笥の上部が部屋の真ん中に鎮座してました。「これか?確かに空やな…。」それを避けながらアルバムを探しました。どこだ?晴れていたので2階は明るかったです。後、屋根の一部か壊れ空が見えてましたね。隅の方から這ながら探していきました。その時、グラッ!!余震が来ました。

    焦りました。このまま倒壊するんか?いや、そんなに大きな地震じゃない…どうする?

    暫くじっとして全神経集中して変化を感じようとしました。余震はグラッの1回だけのようでした。それでもやはり早くアルバム探し出して出ねば。暫くして漸く、兄と私のアルバムが見つかりました。ここで、初めて気づくのも変なのだが、「両親の幼いころの写真って見たこと無い…。」「ん?あるんか?」アルバムの類なら何か記憶が残っていたと思うのですが、その記憶は無い。う~む?アルバムではない?なら何だろう?写真をどうやって保管する?「箱か?」それもそんなに多きくない箱。探しましたね。そしたらありました。

    父・母のそれぞれの写真が入った紙箱が!!多分、父親の若い頃の写真見たの初めてかもしれません。とは言え、そんなに悠長にしてる時間ありません。そそくさとリュックに入れ。

    実家から出ました。

    結果的には毎週末これを暫く続けたのだが…。でもよくあの実家、倒壊せずにいてくれたもんです。あっ!そう言えば、「危険」って赤い紙貼られてましたけどね。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    応急危険度判定

    実家に貼ってあった赤い紙。あれには危険と書いていましたが、

    それ以外に緑色:調査済、黄色:要注意と3色あります。

    二次災害の発生を防止するために貼られるそうで、赤の場合は、今この建物に入ったら命の危険があるよ!付近を通行している人も気をつけてねっていう判定らしく建物の壊れ具合では無いようです。まぁ、でも私のしてた事は褒められた事では無かったわけで、二次災害起こさなくって良かったと思っています。

    提供:神戸市

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995117日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    西宮辺りから徒歩で十数キロ、神戸市東灘区まで行ったって事は、また帰りも徒歩で十数キロ西宮辺りまで歩く事になるわけです。但し、帰りは日が暮れてきますので、細い道や知らない道を通るのは、まだ瓦礫がありましたし停電で暗く足元おぼつかない中、余震なんかあったら洒落にならないので。国道を辿る事にしました。国道43号線、そう、あの阪神高速が倒壊した真下を走る国道です。高速道路が倒壊場所に着きました。高速道路を支える柱が拉げて鉄筋がむき出しになっていました。「高速道路って倒れるんや…。」仕事では何回も通った高速道路です。地震の大きさを改めて感じました。

    そう思っていると、倒壊した高速道路をバックにピースサインして写真撮ってるグループがいました。「何しに来たんや?この人たち?」ただ、ちょっと嫌な記憶があります。さぁ、歩こう!!って時に東の方から私の名前呼ぶ声が聞こえました。「はて?誰?」当時、私と同じエリアで営業してた仲の良かった他社のセールスでした。彼「どうないしたんですか?」私「実家が被災して片付けに着て、今から大阪に帰るところやねん。で?」彼「長田の営業所がどうなったか分からんので、永田まで行くとこです。」へっ?この時間から長田?一人で?甚だ疑問を感じましたが、お互い急いでいるので、挨拶もそこそこに別れました。確かその後、どこかで会った気がするのですが…その語の話の記憶が無い。

    東に向かって歩いて行くと、日が暮れてきました。あくまでも私の記憶ですが、国道43号線を選択して良かったと思います。国道2号線は…最初に原チャリで被災地に向かった道でしたが、国道43号線よりかなり被害が大きかったと思います。

    確か、甲子園まで歩いたか?無事駅に到着。来る時ほど、混雑してなかった気がします。

    梅田に着き、喫茶店に入りました。そこには普段の日常がありました…。地震なんてなかった様な日常が。そこに少し汚れた服を着た私。「さっき迄の事が夢であって欲しい、これが現実であって欲しい…。」この時の違和感は強烈に残っています。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    歩く

    まず、動けなければ避難できないです。そのためには、歩ける事は重要だと思います。

    後、靴。当時どんな靴履いていたか記憶は無いのですが、被災した実家に入り、往復20㎞以上歩けていたのですからそれなりの靴履いていたと思います。決してサンダルや草履では無かったです。助かりましょう!!

    つづく…。

    提供:神戸市