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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震発生時の事を一度両親に聞いた事があります。今となっては、もっと聞いておきたかったなと思うのですが、そうもいかんようになってしまいました。
で、地震発生時なのですが、父親は既に起きていて、1階の四畳半の居間の炬燵で本を読んでいたそうです。そこに地震発生、食器棚とか本棚とか倒れてきたようなのですが、丁度父親の座っているところがエアポケットのような感じで何も倒れてこず、気が付くと倒てきたモノに囲まれて座っていたそうです。確かに会った時は怪我もなくピンピンしてたしなぁ…そんな事もあるんかと思いました。で、母親なんですが、2階で寝てたそうです。
そこに地震、箪笥上部が倒れてきたそうです。ただ、母親が言うには「貧乏で良かったわぁ、箪笥の中空やったから軽くて何とかできた、服入っていたら危なかったわぁ。」まぁ、助かったから良かったのですが、貧乏が原因で助かったって…ちょっと複雑な心境になりました。地震が収まった後、1階の父親からの声が聞こえたそうで。「何でもええから履けるだけの靴下履いて降りてこい!」だったそうです。確かにあの室内で裸足は危険だったと思いますが、良く父親そんな事言ったなと感心しました。どうにか脱出して、近所の人と生き埋めになった人助けたって言ってました。確かに、実家の近隣では亡くなった方いなかった気がします。その後、近所の人と一緒に住吉幼稚園に避難したそうです。
住吉幼稚園は指定の避難所では無かったのかもしれませんが、近所ではそう言う運用になっていたのでしょうか?
明るくなり、皆一度家に戻ったそうです。そして幼稚園に戻って来た時には、皆片手に炊飯器持ってたそうです。生き残ったからの食糧だったと思います。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
まずは生き残る事
地震後に実家に入ったのですが、靴を脱いで入れる状況ではありませんでした。
両親、良く足怪我せず脱出できたと思います。
割れた食器なんかあると危険です。
体で最も守らなければならないのは、頭部だと思うのですが、頭部の次は脚だと思います。
避難したくても動けなくなってしまいますから。
先ずは、生き残る事を考える、行動することが大事だと思います。
つづく…。

現在、私の枕元にある、防災用スリッパです。
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日の話②
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震、長く感じた地震が収まりました。ベッドの中で、「今の何?これが地震?」まだ何か起こったのかよく理解できぬまま、とりあえずテレビつけてみました。ここで初めて近畿地区で何か大きな地震が発生したらしい事が理解できました。ただ、大きな地震など経験した事が無かったので、どのような被害が発生しているのかなんて、全く想像できませんでした。また、早朝に発生したため、報道機関も情報入手が困難だったのでしょうか、詳しい被害状況についてはまだ報道されていませんでした。
ここで覚えているのは、各地の震度が報道され始めたのですが、何故か神戸だけ震度が出ていませんでした。「あれ?なんで神戸だけ震度出ないんやろ?」不思議に思いながらテレビを見ていたら神戸の震度がでました。神戸震度6…「はぁ?震度6?やばい!!」私の実家は、神戸市東灘区の住吉ってところにありました。実家と言っても、築40年以上の木造の5軒長屋です。当時は両親だけが住んでいました。木造のボロ長屋、両親無事なんか?あれが地震に耐えられるんか?。私の心に暗雲が垂れ込め始めました。
電話
私は急いで、寮に1台だけある公衆電話に向かいました。当時はまだ携帯電話は、さほど普及しておらず、私も、両親ももっていませんでした。
実家に電話をかけてみました。
「トゥルルルルー、トゥルルルルー。」まだ回線がパンクする前だったのか、この時数回電話しましたが、電話は繋がりました。けど、誰も電話にはでませんでした。
「電話が鳴るっちゅーことは、電話は無事、でも何で誰もでーへんねん?」私の頭の中パニックになってきましたが、このあと回線がパンクしたのか電話は繋がらなくなりました。
両親は無事なんか?実家はいったいどないなっているのか?私の心の暗雲が更に広がっていきました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
公衆電話

当時は、携帯電話が今の様に普及しておらず、固定電話、公衆電話が主流でした。
で、この公衆電話なんですが、これは「災害時優先電話」なんです。
輻輳(ふくそう)が発生しても繋がり易いんです。私の実家への電話が当初繋がったのも
回線が地震で切れなかったってのもありますが、公衆電話から掛けたことも電話が繋がった要因だったのかもしれません。
※輻輳(ふくそう)交換機の一定時間内に処理できる能力を越える電話が集中することにより発生するいわゆる「電気通信網の渋滞」のこと。
公衆電話について少し注意しておきたいのが、
・公衆電話は、停電しても使用できますが、その場合テレホンカードは使用できません。
使えるのは、小銭(10円・100円)だけです。ちなみに、100円ではおつりでません。
緊急時を考えると、少しくらい小銭は持っていた方が良いかもしれませんね。
・公衆電話は停電しても小銭があれば使えるのですが、どうも電話機の小銭が貯まるところが小銭でいっぱいになると使用できないようです。(当時のわたしの経験です。)
今の子供たちは、公衆電話の使い方しらないらしいってニュース見た事があります。
公衆電話の使い方知ってて損は無いと思います。
つづく…。
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
少しはうろ覚えではあるが、今回も当時の仕事の事にも触れておきたい。
姫路に辿り着いた翌日(着いたの午前1時頃だから当日か?)得意先に伺いました。
大きな被害があった記憶は無いです。ただ翻意にしている得意先の方と話しをした時、私が「最初ゴーって音がして、その後揺れた。」って言ったら「一緒や!こっちの最初大きな音してそれから揺れた。」と。阪神淡路大震災については先に音が(何の音なのか?)してその後揺れた(地震が来た)と言うのはあったようです。
営業車で担当していた販売店を巡回しましたが、大きな被害はなさそうでした。あっ長田で1件ありました。ごれはまた後日。
さて、出張で姫路にいたのですが、金曜日になりました。大阪に戻らなければならないのですが、来たときのあの渋滞…帰れるのか?何か方法ないか?そんな時に新聞だったと思いますが、姫路港から大阪へ船が出てると。私は得意先の部長さんに、週末営業車を預かってもらえないか?お願いしました。経緯を説明すると承諾してくれました。感謝です。
姫路から船で大阪(弁天埠頭だったか?)無事帰ることができました。
その後、船は、明石、神戸と大阪との就航が増えて行ったと思います。
で、その神戸での話なんですけどね。JRの神戸駅の前だったと思うのですが、駅前に仮設の案内所みたいなのがありました。私「大阪行きの最終に船は何時ですか?」案内所の人「6時です。」(私の記憶では)その時は5時頃だったと思います。私は、埠頭に向かい歩い行きました。埠頭に着くと船が一艘停泊していました。あっ!あれかな?私は停泊してる船に千近づいていきました。乗船しようかと思った時、よく見ると、高松行と書かれていました。
危ない、危ない、乗ったら四国に行ってまうやん。しかし、他に船はありませんでした。
遅れてるんかな?なんて考えていると、その船は出航していきました。埠頭には船が一艘もありません。えっ?どういうこと?私が、案内所で船の出航時間聞き間違えた?いや、そうでもなさそうで、私以外にも数人、立ち尽くしている人がいました。少し周りを見回してみると看板のようなモノがあるのに気づきました。近づいてみると、時刻表の様でした。
大阪行書いてました。出航時刻を見てました。最終便:16時…。はぁ?6時じゃなく16時?えぇっ案内所の人6時って…。呆然としていると、私の後ろからも同じような反応がありました。やはり、私だけでは無かったようです。ただ、ここで立ち尽くして居るわけにはいきません。どうしたもんか?電車で帰るしかありませんが、電車に乗るには芦屋まで行かなければなりませんでした。そんな時ある方が「タクシー相乗りで芦屋まで行きませんか?」と。その手があったか。意外と簡単にタクシーはつかまりました。確か見ず知らずの3人でタクシーに乗り芦屋駅に向かいました。タクシーに車内では「6時って聞きましたよね?」「そうそう、えらい目にあったなぁ」「まぁこれでなんとか大阪までもどれますね」とか会話が弾みました。芦屋駅に着き散会。少し遅くなりましたが、大阪に戻ることができました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
情報は最新のものを、偽情報にも注意。
当時は情報と言えば、テレビ、ラジオ、新聞がメインでした。なかなか、情報が更新されたのを気づくのは難しかったと思います。現在はネットやSNS等最新の情報が入手できると思います。情報は最新のモノか確認する事が重要だと思います。
後、真実では無い情報。あの案内所の人は故意では無かったと思いますが(何のメリットも無いですから)私以外にも6時と聞いた人がいましたから、何故か間違えたのでしょう。
ただ、現在はSNS等で真実では無い情報をする人がいるようです。怪しいと思った時は情報元を確認する事が良いと思います。
つづく…。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
少しはうろ覚えではあるが、当時の仕事の事にも触れておきたい。
阪神間は被災で仕事どころでは無かったのですが、被災地より以西の地域
例えば、姫路とか?会社では被災地以西の状況が今一掴めない感じでした。
で、実は私はその被災地以西のエリアを担当していたわけで…(私だけでは無いですけどね。)上司から、状況確認の為にも行って欲しいと、断る理由は無かったのですが
どうやって行けるのか?帰れるのか?
中国自動車道は、西宮北インターからなら走行できる事がわかりました。「取り敢えず、行けるか?」次に宿泊。今みたいにネットでの予約なんてありませんでした。電話です。電話。
電話掛けて予約です。常宿がホテルでは無く、姫路健康センターでした。とっくの昔に潰れたようですが、スーパー銭湯のはしりだったでしょうか?ちゃんと宿泊用の個室ありました。で、ホテルよりも部屋広く安かった。何無く予約できました。何か段々行けそうな感じになってきました。で、ある日朝9時過ぎ位だったと思います。会社を出ました。当時、私の営業車は会社から少し離れた所にあったので、途中コンビにより、たまたま、チョコとペットボトルのお茶買いました。本当、たまたまです。しかし、これが後々、役に立つとは思っていませんでした。で、営業車に乗り出発。西宮北インターまでは下道を走らなければならなかったのですが…出て数分で渋滞でした。全く進みませんでした。「いやぁ、これいったい何時姫路に辿り着けるねん?」昼頃はまだ大阪市内だったでしょうか?かと言って昼飯食べたくても、無理でした。買ったチョコが役にたちました。夕方、やっと宝塚近くまで来たのでしょうか?今みたいにナビなんて無いので地図で確かめるしかないのですが、西宮北インターが果てしなく遠く感じました。あっ、一つ私は謝らなければならない事をしてしまいました。どうしても、尿意に我慢できず、渋滞で車動か無いときに、立小便してしまいました。生理現象には勝てませんでした。この事については全く想定していませんでした。
夜になりました。まだ西宮北インターに辿り着きません。かれこれ会社でて12時間は立ったでしょうか?ただ少しづつですが車の数は少なくなってきた感じはしてきました。
午前零時近くだったと思います。西宮北インターにやっと辿り着きました。中国自動車道に乗れました。それが…メッチャ空いてました…。「今迄の渋滞なんやったんや?」不思議な感じでした。午前一時頃、姫路健康センターに到着しました。フロントの電気は消えてました。「もうアカンかなぁ?」自動ドア空きました、するとフロントから人が出てきてくれました。何とかチェックインでいました。ほっとしました。その時、フロントの人か「よろしかったらどうぞ」っておにぎりを作ってくれてました。嬉しかったです。感謝の気持ちしかありませんでした。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
トイレ
ある意味、食料より重要かもしれません。生理現象は止められないですから。
建物でも水が止まった場合、トイレで水で無理やり汚物流すのは危険です。
排水管が壊れている可能性があります。修理に多額の資金と時間がかかる可能性があります。非常用のトイレは準備しておいた方が良いと思います・
私は、我慢できず立小便をしてしまいましたが(ごめんなさい。)、姫路に着くまでの間のトイレについては全く想定していませんでした。
当時と違い、コンビがトイレ貸してくれるかもしれませんが、渋滞中には…。
つづく…。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
被災した実家から電話帳を探し出し、取り合えず親戚に両親の無事は連絡できた。
さて、次に被災した自宅から何を探し出せば良いのか?
やはり、「思い出」か?。頭に浮かんだのは写真のアルバムでした。
ただそれがあるのは実家の2階のどこか…行けるんかな?
モノが散乱して足の踏み場も無い居間から階段へ。登れそうだ。
2階に辿り着く。階段の前は3畳間。私が子供の頃から使っていたオカムラジュニアデスク…あまり動かずありました。で、六畳間。母親の上に落ちてきたであろう箪笥の上部が部屋の真ん中に鎮座してました。「これか?確かに空やな…。」それを避けながらアルバムを探しました。どこだ?晴れていたので2階は明るかったです。後、屋根の一部か壊れ空が見えてましたね。隅の方から這ながら探していきました。その時、グラッ!!余震が来ました。
焦りました。このまま倒壊するんか?いや、そんなに大きな地震じゃない…どうする?
暫くじっとして全神経集中して変化を感じようとしました。余震はグラッの1回だけのようでした。それでもやはり早くアルバム探し出して出ねば。暫くして漸く、兄と私のアルバムが見つかりました。ここで、初めて気づくのも変なのだが、「両親の幼いころの写真って見たこと無い…。」「ん?あるんか?」アルバムの類なら何か記憶が残っていたと思うのですが、その記憶は無い。う~む?アルバムではない?なら何だろう?写真をどうやって保管する?「箱か?」それもそんなに多きくない箱。探しましたね。そしたらありました。
父・母のそれぞれの写真が入った紙箱が!!多分、父親の若い頃の写真見たの初めてかもしれません。とは言え、そんなに悠長にしてる時間ありません。そそくさとリュックに入れ。
実家から出ました。
結果的には毎週末これを暫く続けたのだが…。でもよくあの実家、倒壊せずにいてくれたもんです。あっ!そう言えば、「危険」って赤い紙貼られてましたけどね。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
応急危険度判定
実家に貼ってあった赤い紙。あれには危険と書いていましたが、
それ以外に緑色:調査済、黄色:要注意と3色あります。
二次災害の発生を防止するために貼られるそうで、赤の場合は、今この建物に入ったら命の危険があるよ!付近を通行している人も気をつけてねっていう判定らしく建物の壊れ具合では無いようです。まぁ、でも私のしてた事は褒められた事では無かったわけで、二次災害起こさなくって良かったと思っています。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
西宮辺りから徒歩で十数キロ、神戸市東灘区まで行ったって事は、また帰りも徒歩で十数キロ西宮辺りまで歩く事になるわけです。但し、帰りは日が暮れてきますので、細い道や知らない道を通るのは、まだ瓦礫がありましたし停電で暗く足元おぼつかない中、余震なんかあったら洒落にならないので。国道を辿る事にしました。国道43号線、そう、あの阪神高速が倒壊した真下を走る国道です。高速道路が倒壊場所に着きました。高速道路を支える柱が拉げて鉄筋がむき出しになっていました。「高速道路って倒れるんや…。」仕事では何回も通った高速道路です。地震の大きさを改めて感じました。
そう思っていると、倒壊した高速道路をバックにピースサインして写真撮ってるグループがいました。「何しに来たんや?この人たち?」ただ、ちょっと嫌な記憶があります。さぁ、歩こう!!って時に東の方から私の名前呼ぶ声が聞こえました。「はて?誰?」当時、私と同じエリアで営業してた仲の良かった他社のセールスでした。彼「どうないしたんですか?」私「実家が被災して片付けに着て、今から大阪に帰るところやねん。で?」彼「長田の営業所がどうなったか分からんので、永田まで行くとこです。」へっ?この時間から長田?一人で?甚だ疑問を感じましたが、お互い急いでいるので、挨拶もそこそこに別れました。確かその後、どこかで会った気がするのですが…その語の話の記憶が無い。
東に向かって歩いて行くと、日が暮れてきました。あくまでも私の記憶ですが、国道43号線を選択して良かったと思います。国道2号線は…最初に原チャリで被災地に向かった道でしたが、国道43号線よりかなり被害が大きかったと思います。
確か、甲子園まで歩いたか?無事駅に到着。来る時ほど、混雑してなかった気がします。
梅田に着き、喫茶店に入りました。そこには普段の日常がありました…。地震なんてなかった様な日常が。そこに少し汚れた服を着た私。「さっき迄の事が夢であって欲しい、これが現実であって欲しい…。」この時の違和感は強烈に残っています。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
歩く
まず、動けなければ避難できないです。そのためには、歩ける事は重要だと思います。
後、靴。当時どんな靴履いていたか記憶は無いのですが、被災した実家に入り、往復20㎞以上歩けていたのですからそれなりの靴履いていたと思います。決してサンダルや草履では無かったです。助かりましょう!!
つづく…。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
震える犬から解放された私は実家を見に行くことにしました。
震災のあった日は、実家の長屋の路地を倒壊した倉庫か塞いでいましたが、
綺麗に更地になっていました。有難かったです。
家の入口の前に行きました。ドアは開いたままでした。
家の中を覗きました。震度6か?部屋の中ってここまでぐちゃぐちゃなるんか…。
驚きました。靴履いたままでないと入れません。よくこの状態でまだ夜明け前の暗い中倒壊した倉庫も乗り越えて脱出できたなと、驚くばかりでした。
冷蔵庫、洗濯機は横倒しになっていました、四畳半の居間の隅に鎮座するテレビ、今と違ってブラウン管の大きな重いテレビこいつは微動だにせずその威容を誇っているように、荒れた部屋の中にありました。このテレビ故障も無く、その後も使う事になります。
日本の家電恐るべしです。
私は取り合えず、あるモノを探しました。当時は今と違いスマホなんて無く、各家庭に黒いダイヤル式の固定電話がありました。で、その近くに親戚とかの電話番号を記載してある電話帳があるはずです。実家も電話置いてる台の引き出しにあったはず。まず、親戚達に両親の無事を連絡するためにそれを探しました。電話を置いている台、電話はありませんでした。
引き出しの中はどうか?薄暗い部屋居間のなかで引き出しの中に手を突っ込み中のモノを出してみました。「あった!」目当の電話帳無事発見できました。
さて、どうやって連絡するか?公衆電話は繋がるらしいのは身をもって知ったので、取り合えず、近くの公衆電話に行ったのですが、10円玉入れようとしても中がいっぱいなのか入らず使えませんでした。どうしたもんか?そういえば隣町の御影にNTTがあった事思い出しました。そこならなんとかなるんちゃうか?淡い期待を持ち、NTTに向かいました。
すると、NTTの前の歩道に机が出されておりその上に何台かの電話が並べられていました。有難かったです。NTTが電話を出してくれていました。まだ余り人が並んでなくて
私、親戚へ電話し、取り合えず、両親の無事を連絡する事ができました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
安否確認
大きな災害があった場合は、人名最優先。安否の早期の確認が重要になると思います。
電話ですが、大規模な災害が発生すると電話会社が行政等の回線を確保するため規制します。そこに大量の通信が来るため「輻輳」(いわゆる回線パンク)が起こり電話が繋がりにくくなります。ただ、規制が行われる前なら、メールより電話の方が早く連絡できる可能性高いと思います。メールの場合、一度サーバ経由してそこから送信になりますが、電話は直節なので、その分早く連絡できます。ただメールの方が輻輳は起こりにくい、またSNS等の方がメールよりも繋がり易い例もあるようです。
平時から複数の連絡媒体での連絡方法を作っておいた方が良いと思います。

実家から掘り出した思い出の絵葉書
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
教室に敷き詰めれらた布団の真ん中は踏まないように歩き、両親が座っていいる所につきました。リュックを下ろし、持ってきた水、缶詰を渡しました。私の目的の一つは達成した感じでした。そんな時、父親が言いました。「良く来たな、まぁ取り合えずビール飲むか?」
えぇ、えぇ、えぇ、えぇ、えぇ?ビール??
父親は缶ビール1本持ってました。
いやぁ、いやぁ、いやぁ、いやぁ、いやぁ、アカンやろ…休みに実家帰ってきたんとちゃうんですけど…。
私「そのビールどないしたん?」
父親「家から掘ってきた。」
おいぃ、おいぃ、おいぃ、おいぃ、おいぃ、掘るんなら他にあるやろぉ・・・。
父親「酒は大事や。」
父親はのビールを残し「ちょっと家見てくる。」と言ってその場を去りました。
母親と私の間にポツンとビールが布団の上に鎮座してました。
流石に飲めませんでした。
そんな時、ふと横を見ると、掛布団が盛り上がってました。
誰か、寝てはるんや、大きな声だしたらアカンな、と思いました。
教室で雑魚寝状態、お互いその辺は気を配らななと思いました。
すると、その布団がめくれ上がり、小学校低学年位の男のが起きてきました。
で、そこ子だけだと思ったら、犬がね、白い中型犬が寝てました。
その子が何処かに行きました。暫くして、犬が目を覚ましたんです。
男の子が居ない事に驚いたのか、キョロキョロ周りを見て、あの男の子を探していました。
居ない…。どうすんのかな?と思っていたら、犬と目が合いました。
犬がにじり寄って来ました。撫ぜてあげようかな?思った時。
犬は、私の着てたセーターを咥え、両方の前足で私の胴をガッチリホールドしたまま、
ブルブルと震えだしました。誰も居ないので不安になったのか?
ちょっと驚きましたが、私は、犬の頭を撫ぜ続けました。
噛んだセーター、中々放してくれません。どうしたものか?と考えているところに
あの男の子が戻ってきました。犬は男の方に戻りました。
犬もショック受けてんのかな?と思いましたが、一週間後に避難所に行った時には、あの犬んですがね、私に見向きもしませんでした…。なんでやねん…。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
被災は人間だけでは無い
私は動物を飼った事はないので、大きな地震発生後どうすれば良いのか?は知っていなにのですが、あの犬の事を思い出すと、動物も何らかのショックを受けているように思います。
またあの頃は、人と同じ布団に犬がいましたが、今は困難な気がします。
ペットの生命は飼い主が守らなければなりません。
ペットを含めた緊急時の対応を立てておく必要があると思います。
つづく…。

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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
多分、19日か20日か?今度は支援物資を少しでも届けたいという思いで現地に向かう事にしました。しかし、いったい何をどうやって運べば良いのか?
まずはリュックサック買うところからでした。
地震や災害対策は何もしていなかったわけです。経験なかったですし。
次にリュックサックと一緒に手袋を買った記憶があります。何か軍手では心もとなく、革製の手袋を買いました。
さて、何が運べるのか?何が必要とされているのか?まず思いついたのは「水」でした。
ペットボトル数本確保できました。食料・・・さて何が良いものか?保存の効く食料?いかんせん知識が無く、缶詰くらいしか思いつきませんでした。ただ、1個や2個もっていっても「すずめの涙」気休めにはなるか?何か数個缶詰買いました。
朝、堺の会社の寮を出発、途中で自分用のおにぎりをコンビで買い、まずは電車で梅田まで。
大阪以西への鉄道は、西宮辺りまでは動いていました。阪急・JR・阪神どれにするか?
特に理由があるわけでは無く、阪急を選びました。行けるのは、「西宮北口」まで。幸運にも電車では座る事ができました。西宮北口からは両親が避難している住吉幼稚園までは徒歩で十数㎞歩く事になります。少しでも体力温存できたのはラッキーでした。
西宮北口着、天気は晴れ。ここからは、西に向かって歩くのみ。道路は瓦礫が散乱していました。家を片付けている方もいました。途中、休憩で買っていたおにぎりを食べました。
食欲は、発災時と違いあったようです。
多分、昼頃か?住吉幼稚園に到着しました。
幼稚園の教室が避難場所になっています。
足の踏み場も無いくらい、布団が敷かれていました。教室の真ん中当たりに両親がいました。しかし、この光景、37年後に同様な光景を能登で展開されているとは、この既視感は、あまり感じたく無いものです。
両親のところに行きました。ここでの父親の言葉が…。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
もう、想定外とは言えない。
私の両親は幸運にも無事でしたが、多くの方が、阪神淡路大震災で亡くなれました。
その後も、東日本大震災等、大きな地震が日本では発生しています。
世界に占める日本の国土面積の割合は、約0.25%と言われていますが、マグニチュード6.0以上の地震の回数の約22.9%は、この小さな島国で発生しているそうです。
日本は、地震大国と言えると思います。そのために、日本の企業は過去から地震対策を行ってきたと思います。例えば
・従業員用にヘルメット等防災用品の備蓄をする。
・帰宅困難な従業員用に水や食料の備蓄をする。
・従業員の負傷防止のためキャビネット等の転倒防止策を講じている。
・地震等発生した場合のマニュアルを作成している。
・定期的に訓練をしている。
等です。
上記は全て会社に従業員が出社している事が前提となっている対策であると思います。
では、コロナ後はどうか?
新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり、テレワークの方が増加しています。
これは、経営陣から組合員まで、自宅で業務をしているときに大規模地震等発生した場合
被災する可能性が高くなると思います。
テレワーク時に阪神淡路大震災のような直下型地震が発生したらどうなるか?
オフィスの様な対策が出来ている家庭がどれくらいあるのでしょうか?
食料、水の備蓄?確かに大事だと思いますが、
これには「私は、災害が発生しても無事生きている。」という前提がると思います。
どうして「生き残る事ができる。」と言えるのか?
その為には、生き残るための準備が必要であると思います。
身を守る場合、「頭」を守る事が重要であると言われています。(2番目が足だそうで)
自宅にヘルメットある家庭がどれくらいあるでしょうか?
身を守れなければ、死んでしまえば、食料も水も役に立たないんです。
まず、自分の身、家族の身を守る事を最優先で考えて欲しいと思います。
また、新型コロナ発生後、改めて復旧策の検討する必要があると思います。
人命救助は「発災後72時間が勝負」とされています。
新型コロナ発生以後は、かなり対応が厳しくなる事が想定されると思います。
感染予防しながらの対策、災害とパンデミック両方を同時に考えなければならないと思います。
避難所を開設できても、今迄より収容人数は少なくせざろう得ないと思います。
今迄以上に「自助」のウエィトが重くなってくると思います。
自然災害につては、原則「自助」であると思いますが、企業が事業を継続するうえで、
一度、地震対策について見直す必要があると思います。
つづく…。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月18日の話②
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震の翌朝、実家はえらい事になってました。
どうやって脱出したんやろって思いました。
とにかく、両親の無事は確認できたわけで、取り敢えずの私の目標は達成できた事になりました。とは、言うものの「ここから先、ここに居て私何できるねん?」が私の正直な気持ちでした。体一つで被災地に入ってしまい、何かしようにも何も思いつきせんでした。実家から何か取り出せるかとも思いましたが、
入口になってる路地は長屋前の倉庫が倒壊して、ちょっと入るのは困難でした。
その実家なんですがね、築40年位の木造の5件長屋でした。間取りは、1階は4畳半一間と台所、お風呂、トイレ。2階が6畳、3畳二間。この古い木造の長屋が倒壊しなかったんですよね。(すぐに赤い紙は貼られましたけど)倒壊しなかった可能性の一つが思いついたのは、この後数十年後のお話しです。
結局、私は一度会社(大阪)に帰る事にしました。このまま居ても足手まといになると思いました。そこから数時間かけて会社に戻りました。上司に両親の無事を伝えました。
どうも私が神戸に向かった後、会社で従業員の安否の確認をしていたらしく、1名不明となっていたそうで…私でした。今なら通信手段もあるんでしょうけど…それ以前に会社に連絡するってとこまで頭回って無かったのが正直なところでした。
上司は「今日は、もう帰って休め」と言われ、私は、何とか会社の食堂で残っていた昼飯にありつけました。1月16日の晩飯後、最初の食事でした。特に空腹を感じることが無かったのは気が張っていたせいでしょうか?
堺の寮に帰宅の途につきました。電車の車窓からは何事もなかったような平和な景色が流れていました。さっきまでの神戸の風景が「何か悪い夢でもみてたんかな?」と思いました。
寮につき、新聞読みました。記事の詳細は忘れてしまいましたが、確か伝言板の様な紙面がありました。「部屋空いてますから使ってください」とか「毛布送ります」とか、現実に引き戻されました。張っていた気も緩んでいたんでしょうか?私は寮の部屋で一人、記事を読みながら泣いていました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
傷つくのは身体だけでは無い。メンタルも傷つきます。
私もそうだったのですが、震災直後、最初は気が張っていて大丈夫そうに見える人もいるのですが、メンタルは結構やられてます。だから、気がプチっと切れる前に、メタルのケアが出来る人も、災害時には必要かなと思います。
私がNLPを学んだのもしのせいだったかもしれません。
つづく・・・。

提供:神戸市
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震災備忘録:阪神淡路大震災
1995年1月18日の話①
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
ガスタンクの爆発は防げたようで、避難は解除になりました。
住吉小学校は避難所だとは言え、知っている人が誰もいない…。
流石にこれは「無いはぁ~どっか別っとこやろこれ」と思ったのです。
私は避難所の小学校に戻るのを止めて実家の方に向かうことにしました。
実家の近くまで来ると初めて知っている人に会う事ができました。
幼馴染のお父さんでした。私「両親探しに来たんやけど、行方分からないんです。」
幼馴染のお父さん「大丈夫、無事や一緒に避難してたんや。もうすぐ下りてくるから。」
両親達もガスタンクの件で山の方に避難していたようでした。
それから数分後、やっと両親に会えました。
母親はかなり疲労しているようでしたが、怪我も無く無事でした。
父親も無事で母親よりは元気そうでした。
ただ、父親の会った第一声が「どないしたんや?何かあったんか?」でした。
イヤ、イヤ、イヤ「何かって…」あまりの普通すぎる反応に、目が点になってしまいました。
私はその後何を何をしゃべったか…覚えていません。
両親や近所の方々は指定避難所ではなく、近所の住吉幼稚園に避難していました。
指定の避難所ではなかったようですが、どうも何かあった時はその幼稚園に避難するってなっていたようです。実家からは歩いて1~2分の場所にあります。
私は卒園児です。確か、私が通園時に木造から鉄筋2階建に立替られましたので、1971年建替えだから旧耐震の建物なのですが大丈夫だったようです。
昨夜その辺りも歩いたのですが全く気付きませんでした。人気は無かったと思います。
私の頭には、避難所=住吉小学校だったので、全くの盲点になっていたのでしょう。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
情報のバージョンアップ
私の両親等、実家近隣の住民が避難していた住吉幼稚園なのですが
残念ながら平成31年3月31日に閉園になっていました。
(卒園生としては寂しいのですが)
指定避難所では無かったとは言え、近隣住民にとってこれがあったから助かったと思います。しかし、現在はありません。つまり次に神戸を大きな災害が発生した場合は、
別の避難所を決めていないとダメだと言うことです。
情報のバージョンアップは必須です。
つづく…。

提供:神戸市