• 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    地震発生時の事を一度両親に聞いた事があります。今となっては、もっと聞いておきたかったなと思うのですが、そうもいかんようになってしまいました。

    で、地震発生時なのですが、父親は既に起きていて、1階の四畳半の居間の炬燵で本を読んでいたそうです。そこに地震発生、食器棚とか本棚とか倒れてきたようなのですが、丁度父親の座っているところがエアポケットのような感じで何も倒れてこず、気が付くと倒てきたモノに囲まれて座っていたそうです。確かに会った時は怪我もなくピンピンしてたしなぁ…そんな事もあるんかと思いました。で、母親なんですが、2階で寝てたそうです。

    そこに地震、箪笥上部が倒れてきたそうです。ただ、母親が言うには「貧乏で良かったわぁ、箪笥の中空やったから軽くて何とかできた、服入っていたら危なかったわぁ。」まぁ、助かったから良かったのですが、貧乏が原因で助かったって…ちょっと複雑な心境になりました。地震が収まった後、1階の父親からの声が聞こえたそうで。「何でもええから履けるだけの靴下履いて降りてこい!」だったそうです。確かにあの室内で裸足は危険だったと思いますが、良く父親そんな事言ったなと感心しました。どうにか脱出して、近所の人と生き埋めになった人助けたって言ってました。確かに、実家の近隣では亡くなった方いなかった気がします。その後、近所の人と一緒に住吉幼稚園に避難したそうです。

    住吉幼稚園は指定の避難所では無かったのかもしれませんが、近所ではそう言う運用になっていたのでしょうか?

    明るくなり、皆一度家に戻ったそうです。そして幼稚園に戻って来た時には、皆片手に炊飯器持ってたそうです。生き残ったからの食糧だったと思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    まずは生き残る事

    地震後に実家に入ったのですが、靴を脱いで入れる状況ではありませんでした。

    両親、良く足怪我せず脱出できたと思います。

    割れた食器なんかあると危険です。

    体で最も守らなければならないのは、頭部だと思うのですが、頭部の次は脚だと思います。

    避難したくても動けなくなってしまいますから。

    先ずは、生き残る事を考える、行動することが大事だと思います。

    つづく…。

    現在、私の枕元にある、防災用スリッパです。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日の話②

    阪神淡路大震災とは 

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。 

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。 

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。 

    あれから、もう29年も経過したんですね。 

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私 

    地震、長く感じた地震が収まりました。ベッドの中で、「今の何?これが地震?」まだ何か起こったのかよく理解できぬまま、とりあえずテレビつけてみました。ここで初めて近畿地区で何か大きな地震が発生したらしい事が理解できました。ただ、大きな地震など経験した事が無かったので、どのような被害が発生しているのかなんて、全く想像できませんでした。また、早朝に発生したため、報道機関も情報入手が困難だったのでしょうか、詳しい被害状況についてはまだ報道されていませんでした。 

    ここで覚えているのは、各地の震度が報道され始めたのですが、何故か神戸だけ震度が出ていませんでした。「あれ?なんで神戸だけ震度出ないんやろ?」不思議に思いながらテレビを見ていたら神戸の震度がでました。神戸震度6…「はぁ?震度6?やばい!!」私の実家は、神戸市東灘区の住吉ってところにありました。実家と言っても、築40年以上の木造の5軒長屋です。当時は両親だけが住んでいました。木造のボロ長屋、両親無事なんか?あれが地震に耐えられるんか?。私の心に暗雲が垂れ込め始めました。 

    電話 

    私は急いで、寮に1台だけある公衆電話に向かいました。当時はまだ携帯電話は、さほど普及しておらず、私も、両親ももっていませんでした。 

    実家に電話をかけてみました。 

    「トゥルルルルー、トゥルルルルー。」まだ回線がパンクする前だったのか、この時数回電話しましたが、電話は繋がりました。けど、誰も電話にはでませんでした。 

    「電話が鳴るっちゅーことは、電話は無事、でも何で誰もでーへんねん?」私の頭の中パニックになってきましたが、このあと回線がパンクしたのか電話は繋がらなくなりました。 

    両親は無事なんか?実家はいったいどないなっているのか?私の心の暗雲が更に広がっていきました。 

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    公衆電話 

    当時は、携帯電話が今の様に普及しておらず、固定電話、公衆電話が主流でした。 

    で、この公衆電話なんですが、これは「災害時優先電話」なんです。 

    輻輳(ふくそう)が発生しても繋がり易いんです。私の実家への電話が当初繋がったのも 

    回線が地震で切れなかったってのもありますが、公衆電話から掛けたことも電話が繋がった要因だったのかもしれません。 

    ※輻輳(ふくそう)交換機の一定時間内に処理できる能力を越える電話が集中することにより発生するいわゆる「電気通信網の渋滞」のこと。 

    公衆電話について少し注意しておきたいのが、 

    ・公衆電話は、停電しても使用できますが、その場合テレホンカードは使用できません。 

    使えるのは、小銭(10円・100円)だけです。ちなみに、100円ではおつりでません。 

    緊急時を考えると、少しくらい小銭は持っていた方が良いかもしれませんね。 

    ・公衆電話は停電しても小銭があれば使えるのですが、どうも電話機の小銭が貯まるところが小銭でいっぱいになると使用できないようです。(当時のわたしの経験です。) 

     今の子供たちは、公衆電話の使い方しらないらしいってニュース見た事があります。 

     公衆電話の使い方知ってて損は無いと思います。 

     つづく…。 

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    ライフライン

    調べると直ぐにわかるのですが、阪神淡路大震災後の神戸市のライフラインの復旧ですが、

    電気:7日間・電話:14日間・ガス:85日間・水道:91日間・下水道:135日間だそうです。電柱が4,000本位倒れたそうですが、電線さえ何とか繋げられたら電力の供給はできたのでしょう。電話も当時はほぼ固定電話なので同様だったのでしょうか?

    やはり地中に埋設されているものは復旧に時間が掛かったように思えます。

    水道と下水道、自助でもこの対策が重要な気がします。

    但し、生き残ったらが前提です。先ずは、頭を守る術を準備する。脳をやられたら意識を無くす事も有るでしょうし、そのまま死に至る事もあるでしょう。以前、私の交通事故の事書きましたが、その時は頭の左前部を強打しました。意識が戻ったのは数日後でした。頭を守らないと意思決定できないので、次の行動も出来なくなります。頭を守るものは準備しておいた方が良いと思います。次に足です。足負傷すると避難出来なくなります。

    以前、防災用の室内スリッパ画像だしましたが、大きな地震では部屋の中洒落にならないくらいモノが動きます。震災後、実家に行った時、靴脱いで部屋に入れる状態ではありませんでした。正直言って「どないしたら部屋ここまでぐちゃぐちゃになるねん?」くらい家具やモノが散乱してました。後から聞いた話ですが地震が収まった後、父親(1階にいました。)は、母親(2階にいました)に「履けるだけの靴下履いて降りてこい」って言ったそうです。

    よく思いついたと思います。裸足なら怪我してたでしょう。

    で、助かる術準備できたら、次は、水とトイレです。ライフラインの復旧考えると暫くは自助で賄う必要があると思います。地震が発生した後では遅いです。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    天災は忘れた頃にやって来る

    阪神淡路大震災から早29年たちましたが、能登の地震は今年です。まだ10か月も経過していませんが、忘れていませんか?何が起こったか?

    物理学者で随筆家の寺田寅彦さんの残したと謂われる言葉です。

    「天災は忘れた頃にやって来る」日本に住むいじょう忘れてはならんのです。

    一見普通のキャップですが、中にプロテクターが入っています。撥水性の素材、防災用に使えるキャップです。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    実家

    実家は倒壊しなかったんです。だから、両親や同じ長屋に住んでた人無事だったんですけど。

    しかし、なぜ倒壊しなかったのか?多分、1965年か6年くらいに近所のアパートから引っ越ししたと思います。その頃には、すでに幼馴染が住んでいたので、1950年台後半にはその長屋あったと思います。そう震災時には築40~50年の木造住宅だったんです。

    内閣府のデータによると、建物の被害は1981年以前の建物に大きく、現行の建築基準法・同施行令が改正された1981年を境として建物の耐震性大きな差があることが指摘されたとある。完全に旧耐震の建物でした。隣のプレハブっぽいアパートは倒壊、その隣に一戸建ても倒壊…どうして倒壊しなかったのか?これがず~って謎のままでした。建築に詳しい方なら分かったかもしれませんが、ぜんぜん詳しく無いです。

    40歳代の頃、本社で防災担当していた時、ある大学の先生のお話を聞く機会がありました。

    そこで、新耐震と旧耐震では、「壁量」が違うってお話がありました。壁量?、実家の間取りを思い浮かべました。1階は4畳半、台所、トイレ、風呂、階段、階段の下は押し入れ。2階は、6畳間に押し入れとモノ入れ、3畳間に押し入れ。今の建物と違い、収納スペースが多かったです。窓はベランダの様なものは無く、体の上半身が出る程度の窓…。あれっ?なんか壁と柱多くないか?狭い土地に狭い5件長屋その1件ごとに、壁・柱・壁・柱…。

    私、意を決してその大学の先生に質問しました。阪神淡路大震災で東灘区の実家が被災したこと。旧耐震の木造アパートで倒壊しなかった事。そして間取り。先生からは、やはり壁量と柱が多いのが倒壊しなかった可能性として高いとの事でした。正解では無いのかもしれません。先生もいきなりの質問で私の話しかデータ無いですから。それでも、何かず~っと心に引っかかっていたものが取れた気がしました。「貧乏やったから助かったんか?」

    私の両親は、生かされたようです。この震災では。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    先ずは、生き残る術を

    前回書きましたが、阪神淡路大震災での死因では圧死が多かった。

    就寝中に地震が発生し、家具類が倒れて来た。体を圧するものがあった。

    現在の住宅を阪神淡路大震災時より当然、新耐震の住宅が多いので建物の倒壊は少なくなる可能性が高いと思います。ただ、現在の建物って私の実家と比較すると、収納スペースが少ないと思います。その為、家具類が必要になる。建物の倒壊よりも、室内の家具類の倒壊が気になります。そんな事考えているせいでしょうか?私、転勤するとき、収納スペース多さが気になるんですよね?

    つづく…。

    東映プラザ、三宮センターにあった映画館ですね。

    燃えよデブゴン、1981年公開。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    災害の記憶

    多分、人生初めての地震が阪神淡路大震災であり、地震は関東で起こるものだと思っていました。子供の頃災害について学んだ記憶は「水害」でした。今調べてみると、昭和13年(1938年)7月3~5日の集中豪雨。死者616名、被害家屋約9万戸。確か、小学生の時に、山から落ちてきた大きな石の石碑を見にいった記憶があります。神戸は扇状地で山と海の距離も近い。そうなんです、川の長さが短いんです。だから、集中豪雨があると一気に土砂が街にきたのでしょう。でもなぁ、私自身は「水害」の経験は無い。住吉川なんて川岸が埋め立て用の土砂運ぶトラックの道路になって、堤防は全部コンクリート。何も危険を感じた事はありませんでした。ただ、平成20年(2008年)7月28日都賀川で集中豪雨で、10分間に1.34ⅿという急激な水位上昇で5名が亡くなるという事故が発生しています。

    この頃は会社で防災担当でしたが、テレビで映像見た記憶があります。

    神戸って「水害」起きやすいんではないかと思いました。私は、ただ運が良かっただけ。

    あっ、その代わりでは無いですが、昭和45年(1965年)に交通事故で死にかけました。

    えぇ、交通事故での死者が16,765名、統計上最も交通事故での死者が多かった年です。

    閑話休題、今年、能登で大きな地震があり、その後線状降水帯が発生、水害も発生しました。

    神戸で線状降水帯が発生が発生したらどうなるか?川が溢れる事は無いかもしれませんが、

    下水道で処理できない水が街にあふれる内水氾濫は考えられると思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    他山の石

    今年能登で大きな地震がありましたが、阪神淡路大震災からは29年。

    東日本大震災からも早13年経過しています。一時、南海トラフ地震の危機が想起されましたが、現在は平穏な状態です。日本の大都市に住む市民は、ほぼ大きな災害を経験していないのです。当時よりも高齢化が進んだ現在、大規模災害が発生したらどうなるのか?

    能登で起こっている事を、他山の石にして欲しいと思います。

    つづく…。

    ノストラダムスの大予言の割引券です。1974年らしいので、多分、小学校の前で配ってたか?三劇と阪急文化2館で上映だったんの初めて気づきました。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    何の因果か、40歳代10年程、会社で防災担当をする事になったのですが、

    その時、防災士の資格とったり、社外の勉強会に行ったりと、色々学んだのですが

    阪神淡路大震災の話もありました。

    犠牲者6,434名の内、直接死は5,483名。この直接死の方はほぼ当日、即死に近い事との事。窒息死、圧死が3,979名(約73%)だったとの事でした。

    圧死って何なんだ?当時の講師の方が例え話で言ったのは、「寝ているところに200㎏近いお相撲さんが、ゆっくり胸の上に乗ってくるのをイメージしてください。」でした。

    そうすると胸郭が圧迫され呼吸ができなくなり、窒息すると。で、ほぼ即死になるとの事でした。お亡くなりになられた方の遺体の写真も見たのですが、大きな外傷が無かった写真がありました。当時は古い建物が多く(私の実家もですが)、真冬の5時46分52秒。

    殆どの方がまだ布団の中で就寝中だったのではないかと思います。その布団の上に家具だの倒壊した家が落ちてきたので、そのまま身動きできず亡くなられたのかと思います。

    長田の様に大火に襲われた街もありました。新長田の辺り、子供の頃、父方の爺さんが住んでいて何度か遊びに行った記憶があります。街全体が焼失してしまう。能登の地震の輪島の朝市の光景を見ると思い出してしまいます。ただ、あそこまで燃えてしまうと、ご遺体みても(ほぼ遺骨の状態のようですが)焼死なのか亡くなってから火災に会ったのか不明なケースがあるようです。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    被害想定は変わる。

    当時の神戸と今の神戸では、被害想定は変わってくると思います。

    古い木造家屋が少なくなっていますから、家屋の倒壊や火災は減ると思います。

    平面な被害は減る可能性があります。ただその変わり、マンションが増加していますので、縦方向への被害が増える。ライフラインが止まった時、高層マンションで怪我人が出た時に救助の行けるのか?高層階居住者がライフライン止まった中で、階段での往来での生活は可能なのか?ましてや当時より高齢者が増えているのである。所謂、災害弱者は増加しているのである。そして、当時なかった新型コロナのような感染症…。

    被害想定が変わればその対策も変えなければいけないと思います。

    過去の被害が現在に当てはまる訳では無いのです。

    新聞会館裏にあったアサヒシネマ。確か、名画座だった気がするのですが、違ってたらごめんなさい。子供には名画座って敷居が高かった。多分、大学生くらいの時のチラシかな?

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    両親は何とか仮設住宅に入居できる事になったのですが、仮設は仮設なんで何時かは出なければなりません。年金生活の両親、情けないが私も大した貯金は無かった。

    復興住宅に申し込みました。しかしこれがまた中々決まらず…。

    まぁ、私はサラリーマンなので、定期の異動があるのですが、会社には両親の事情を話、仮設から出れるまでは大阪にと希望だしたのですが、叶わず、98年私は仙台に異動になりました。

    両親は翌年、復興住宅に入れることができました。約4年、仮設住宅生活でした。

    よくあの狭い住環境で耐えれたと思います。

    引っ越しの時は、仙台から戻りました。引っ越し先は、隣の灘区の、かなり急な勾配の坂の先にある新築マンションでした。一棟借上げだったのでしょうか?老夫婦二人には広すぎるくらい広いマンションでした。取り合えず、これで両親の生活は何とかなったかと思いました。思ったんですがね、3年後、父親は自殺しました。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    諸行無常

    正直、ここから先の事はまだ書ける気がしません。

    何時かは書ける時が来るとは思いますが、今はこの件はここまで。

    阪神淡路大震災で亡くなられた方は、関連死を含めれると、約6,400名。

    当然、私の父親は含まれていません。

    しかし、住環境が変わり、人間関係が変わると、このような悲惨な結果になる事もあるのです。私は、うつ病になってしまいましたが、私の中で自殺と言う選択肢は無くなりました。

    つづく…。

    これは、地震よろとっくの昔1978年に閉館になった。神戸新開地にあった聚楽館のチラシですね。私が行ってた頃は、古くて、綺麗とは言えない映画館でしたが、

    完成が1913年、その頃の神戸の繁華街は、三宮ではなく新開地だったようです。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    思い出の欠片

    ここまでは、私の当時の経験を主に書いてきましたが、思い出の場所なんかも無くなってしまったわけで…。特に、当時三宮にあった映画館はほぼ全滅になったのではなかったか?

    (あくまでも私の記憶なんで、無事だった映画館あったらごめんなさい。)

    10館くらいあった様な気がするのですが…。

    私が小学生の頃なんて、休み前になると、校門の前で映画の割引券配ってましたね。

    東宝チャンピオンまつり…ゴジラです。東映まんがまつり…仮面ライダー?ん?長くつを履いたネコ?三宮の阪急電車の高架下だっと思いますが、東宝と東映が向い合せでありましたね。三劇と三映でしたっけ?割引券片手にゴジラ見に行ってましたね。

    あっ阪急のビルの中にも3つ位映画館ありましたかね?放映中でも電車の音が良く聞こえるという…。神戸新聞会館、国際松竹、国際ニッカツ、う~む書いていて懐かしくなります。

    映画館としては残っていませんが、三宮センター街にあった三宮東映?確か今本屋さんになっていると思うのですが、ビジネス書のフロアだと思うのですが、細長く、少し階段のあるフロア…「あっ!ここが映画館やったんかな?」初めてその書店に行った時、そんな風に思った記憶があります。私の記憶の中で生き続ける、神戸の街並。忘れない内に書いておきたいと思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    復旧と復興

    震災当時、県なのか?市なのか?それとも国なのか?復旧を目指していたと思います。

    震災前の神戸に戻そうと。果たしてそれが良かったのか?復旧に数年費やしている間に、発展していた都市にどんどん抜かれて行ったのでなかったか?

    関東大震災時は「帝都復興院」が設立されました。復旧では無く復興です。

    首都と比較するのは難しいかもしれませんが、震災前よりも都市機能が向上した都市のグランドデザインを描けなかったのか?やはり、初めての大震災でそんな余裕はなかったのかもしれませんが、その語の東日本大震災、今年の能登の災害を見ていると、何か復興では無く復旧を目指している気がしてなりません。

    つづく…。

    56.8.8は、昭和56年8月8日か?三宮東映のゴム印です。

    吠えろ鉄拳、あの真田広之さん主演の映画です。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    平日の仕事、休日に神戸の実家に行く生活。大阪と神戸の街の様子のギャップは中々埋められるものではありませんでした。

    阪神電車が青木駅まで開通した時だったと思います。青木駅で降り、線路沿いの歩道を歩いていると、瓦礫の山がありました。そこに張り紙が一枚。「ゴミを捨てないで下さい。人が埋まっています。」やるせない思い。さっきまでの大阪が夢ではないか?と思えてしまう。

    ただ、全く復興が進んでいないわけでは無く、仮設住宅の建設が始まりました。

    現在は仮設住宅ができた場合、コミュニティ単位での居住を考えていますが、当時は完全抽選だったと思います。近所の方々が彼方此方の仮設住宅に決まる中、私の両親の仮設住宅の抽選が当たったのはかなり遅かったと思います。阪神青木駅に近くだったか?小高い小さな公園に建設された仮設住宅でした。四畳半一間、ユニットバス、キッチン。それだけ。

    正直、「狭いな」って思いました。まぁ、贅沢は言ってられません。これで、取り合えず生活再建の足掛かりはできたかと思いました。思ったんですが…。

    実家のあった長屋、取り怖される事になるのですが、その後に、大家さんの住宅と借家が出来るらしいのですが、家賃が数倍になるって事で、両親「それは無理や」って。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    生活再建

    何かここで初めて、公助が出てくる気がしますが、生活再建を考えなければいけません。

    経済状態は人それぞれでしょうから、再建のスタート位置は違うと思いますが、生きて行くためには、個人の力だけでは無理な気がします。街作り、生活の糧作り、これは官民協力して、今迄への復旧では無く、こうなった以上、今以上の良いモノにする考えが重要だと思いのです。

    震災で無くなった三宮にあった映画館、新聞会館のゴム印のある映画のチラシです。

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    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    平日は普通に仕事して、週末土曜日は実家の片付けって感じでしたね、当時。

    まぁ、そのため同期の結婚式等に不義理した事もありました。申し訳ないと思っていますが、当時被災地の実家行っていると、そういう気持ちにはなれませんでした。

    閑話休題、赤い紙貼られた実家に入って、片付けるといっても、何れ取り壊されます。

    それまでに何ができるのか?電話帳、アルバム、あっ、母親が大事にしてたネックレスなんかは見つけたか?自分のもの…コミック?プラモデル?映画のパンフ?う~む、子供の頃の思い出の詰まったモノ。中々、それ担いでまた堺まで変えるには限界ありました。ただ、そんな事考えながら実家に入っていってたんですがね、実家の一階が何か違う。父親が片付けたのもあるでしょうし、何か使えるものを取り出したのかもしれないのですが、私が見つけて纏めて置いていた割れていない綺麗な食器が全て無くなっていました。まぁ、あまり悪い事は考えたくないのですが、そんな事あったのも事実です。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    知らないとは言えない。

    今は、南海トラフ地震や首都直下地震等、大規模地震の対策が声高に叫ばれていますが、当時は、私の記憶では無いです。当時、生まれて初めての地震が阪神淡路大震災だったと思います。それから日本は何回も大規模な地震を経験しています。「もう、知らない。」とは言えないと思います。少しでも災害時に生き残る術を身に着けておいてほしいと思います。

    簡易トイレ用に買った凝固剤です。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    どうも、あまり思い出せない事があります。

    「トイレ」です。被災地でどうしてたのか?どうも思い出せません。

    覚えているのは、いつ頃だったか、JR住吉駅前に仮設トイレが設置されていました。

    そこを一度使用した記憶はあります。工事現場とかに設置されているあれです。

    まぁ、かなり汚かったです。それを見て、我慢するようになってしまったか?

    両親が避難していた住吉幼稚園。ここでもトイレに行った記憶が無い。 ここは、多分、裏庭掘ってトイレにしていた気がするのですが、実際トイレに行っていないので定かでは無い。考えられるのは、当時平日は仕事。休日の一日を被災地の実家の片付けなんかで被災地に行ってましたので、実際に被災地に居たのは半日程度。被災地外でトイレに行っていたのか?う~む、なぜ記憶が無いのか?大事な事なんですがねぇ…。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    水とトイレ

    食料よりも、水とトイレの備蓄の方が重要ではないかと思っています。

    水、昨今の暑さ、災害無くても水分補給しないと危ないですよね?これで、大規模地震が発生して水道止って水分補給出来ないとなると…水の備蓄は重要だと思います。

    食料も大事だと思いますが、1日~2日食べなくても直ぐに死ぬ事は無いと思います。

    水分補給はそうはいきませんので。

    トイレなのですが、水道が止まると当然トイレも水流せません。無理やり流したとしても排水管が破損していれば後々、修理し治るまでトイレ使えない事になります。

    簡易トイレの備蓄は必要だと思います。

    一戸建てなら庭に穴掘ってってできるかもしれませんが…マンションならどうか?

    トイレの度に階段で降りて、どこかトイレ探す事になります。現実的だろうか?

    食事は我慢できても生理現象は我慢できません。トイレに行く回数減らしたいので水分補給へらすと、エコノミークラス症候群のになる可能性があります。

    確か、中越地震だったかで話題になったと思います。

    それだけ、水とトイレは重要なんです。

    つづく…。

    この黒い袋の中に折り畳み式の簡易トイレがあります。私の備蓄品です。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    少しはうろ覚えではあるが、今回も当時の仕事の事にも触れておきたい。

    いつ頃だったか、担当しているスーパーの本部から、神戸市内のある店舗の商品撤去の応援依頼が来ました。ヘルメット持参、飲食提供無しだったと思います。スーパーの店内がどうなっているのか?危険覚悟で行くことにしました。

    当然、車では行けませんので、大阪の弁天埠頭から船で行くことになります。

    船内は結構人がいました。競合社のセールスもいました。あぁ、この人も行くんやろなぁ、なんて思いながら、船内地べた座りで神戸港に着くのを待ちました。

    神戸港に到着、さてここからその店舗までどうやって行くか?仕事でタクシー使うなんて、当時の私の頭にはありませんでした。(下っ端だったんでね)歩きました。

    西市民病院の近くも歩きました。あぁ、ここか1フロア潰れた病院…地震の被害の凄まじさを目の当たりにすると、実家の事思い出してしまします。アカン、アカン仕事、仕事。

    自分に言い聞かせ、店舗に向かいました。店舗に到着。同じ船に乗っていた競合社のセールスは既に到着してました。私「もう着いてたんや、はやなぁ」相手「タクシー乗ったら直ぐですよ?えっ?歩いたんですか?」私「…」羨ましいかったです。

    店舗内に入りました。売り場は2階。階段で上がります。一部壁が崩れ空が見えてましたが

    木材で補強されていました。売り場でやる事は、兎に角、散乱した商品をかごに入れ台車まで運ぶでした。作業する人はそこそこいました。あまり大きな店舗では無かったので作業自体はスムーズに進みました。ただ、この集めた商品どうやって下すんやろ?あの階段は無理だと思うし、エレベーター止まってるし…。バイヤーがいたので、「これ、どうするんですか?」と聞くと「壁壊して、クレーンで下すんや」って。作業が終わり、店舗からでて隣の駐車場に行くと、クレーン車が止まってました。どうやって壁壊したかは記憶が無いのですが、壁壊したところからクレーンで台車ごと駐車場に止まっていたトラックに商品下してました。手際良かったと思います。作業は終わり、解散。

    また神戸港から(当然、徒歩ですよ)船で大阪に帰りました。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    自助

    災害では、住民だけでなく行政の機関も被災します。行政で勤務している人も被災するんです。まずは、自分の生命を自分で守る事が重要だと思います。自分が助かってないと他人を助ける事もできません。敢えて書くと。食料を備蓄しても、亡くなってしまったら何の役にも立ちません。まずは、生命を守る行動をしてください。生命を守る道具を備えてください。

    つづく…。

    提供:神戸市