• 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう29年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私

    地震発生時の事を一度両親に聞いた事があります。今となっては、もっと聞いておきたかったなと思うのですが、そうもいかんようになってしまいました。

    で、地震発生時なのですが、父親は既に起きていて、1階の四畳半の居間の炬燵で本を読んでいたそうです。そこに地震発生、食器棚とか本棚とか倒れてきたようなのですが、丁度父親の座っているところがエアポケットのような感じで何も倒れてこず、気が付くと倒てきたモノに囲まれて座っていたそうです。確かに会った時は怪我もなくピンピンしてたしなぁ…そんな事もあるんかと思いました。で、母親なんですが、2階で寝てたそうです。

    そこに地震、箪笥上部が倒れてきたそうです。ただ、母親が言うには「貧乏で良かったわぁ、箪笥の中空やったから軽くて何とかできた、服入っていたら危なかったわぁ。」まぁ、助かったから良かったのですが、貧乏が原因で助かったって…ちょっと複雑な心境になりました。地震が収まった後、1階の父親からの声が聞こえたそうで。「何でもええから履けるだけの靴下履いて降りてこい!」だったそうです。確かにあの室内で裸足は危険だったと思いますが、良く父親そんな事言ったなと感心しました。どうにか脱出して、近所の人と生き埋めになった人助けたって言ってました。確かに、実家の近隣では亡くなった方いなかった気がします。その後、近所の人と一緒に住吉幼稚園に避難したそうです。

    住吉幼稚園は指定の避難所では無かったのかもしれませんが、近所ではそう言う運用になっていたのでしょうか?

    明るくなり、皆一度家に戻ったそうです。そして幼稚園に戻って来た時には、皆片手に炊飯器持ってたそうです。生き残ったからの食糧だったと思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    まずは生き残る事

    地震後に実家に入ったのですが、靴を脱いで入れる状況ではありませんでした。

    両親、良く足怪我せず脱出できたと思います。

    割れた食器なんかあると危険です。

    体で最も守らなければならないのは、頭部だと思うのですが、頭部の次は脚だと思います。

    避難したくても動けなくなってしまいますから。

    先ずは、生き残る事を考える、行動することが大事だと思います。

    つづく…。

    現在、私の枕元にある、防災用スリッパです。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日の話②

    阪神淡路大震災とは 

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。 

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。 

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。 

    あれから、もう29年も経過したんですね。 

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    その後の私 

    地震、長く感じた地震が収まりました。ベッドの中で、「今の何?これが地震?」まだ何か起こったのかよく理解できぬまま、とりあえずテレビつけてみました。ここで初めて近畿地区で何か大きな地震が発生したらしい事が理解できました。ただ、大きな地震など経験した事が無かったので、どのような被害が発生しているのかなんて、全く想像できませんでした。また、早朝に発生したため、報道機関も情報入手が困難だったのでしょうか、詳しい被害状況についてはまだ報道されていませんでした。 

    ここで覚えているのは、各地の震度が報道され始めたのですが、何故か神戸だけ震度が出ていませんでした。「あれ?なんで神戸だけ震度出ないんやろ?」不思議に思いながらテレビを見ていたら神戸の震度がでました。神戸震度6…「はぁ?震度6?やばい!!」私の実家は、神戸市東灘区の住吉ってところにありました。実家と言っても、築40年以上の木造の5軒長屋です。当時は両親だけが住んでいました。木造のボロ長屋、両親無事なんか?あれが地震に耐えられるんか?。私の心に暗雲が垂れ込め始めました。 

    電話 

    私は急いで、寮に1台だけある公衆電話に向かいました。当時はまだ携帯電話は、さほど普及しておらず、私も、両親ももっていませんでした。 

    実家に電話をかけてみました。 

    「トゥルルルルー、トゥルルルルー。」まだ回線がパンクする前だったのか、この時数回電話しましたが、電話は繋がりました。けど、誰も電話にはでませんでした。 

    「電話が鳴るっちゅーことは、電話は無事、でも何で誰もでーへんねん?」私の頭の中パニックになってきましたが、このあと回線がパンクしたのか電話は繋がらなくなりました。 

    両親は無事なんか?実家はいったいどないなっているのか?私の心の暗雲が更に広がっていきました。 

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    公衆電話 

    当時は、携帯電話が今の様に普及しておらず、固定電話、公衆電話が主流でした。 

    で、この公衆電話なんですが、これは「災害時優先電話」なんです。 

    輻輳(ふくそう)が発生しても繋がり易いんです。私の実家への電話が当初繋がったのも 

    回線が地震で切れなかったってのもありますが、公衆電話から掛けたことも電話が繋がった要因だったのかもしれません。 

    ※輻輳(ふくそう)交換機の一定時間内に処理できる能力を越える電話が集中することにより発生するいわゆる「電気通信網の渋滞」のこと。 

    公衆電話について少し注意しておきたいのが、 

    ・公衆電話は、停電しても使用できますが、その場合テレホンカードは使用できません。 

    使えるのは、小銭(10円・100円)だけです。ちなみに、100円ではおつりでません。 

    緊急時を考えると、少しくらい小銭は持っていた方が良いかもしれませんね。 

    ・公衆電話は停電しても小銭があれば使えるのですが、どうも電話機の小銭が貯まるところが小銭でいっぱいになると使用できないようです。(当時のわたしの経験です。) 

     今の子供たちは、公衆電話の使い方しらないらしいってニュース見た事があります。 

     公衆電話の使い方知ってて損は無いと思います。 

     つづく…。 

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    感染症

    阪神淡路大震災当時、1月17日世間的には、インフルエンザの流行している時期のはずなのだが、どうも私にそう言う知識がなかったせいなのか、両親が避難してた避難所や当時新聞等で被災地での感染症に関する記事も見た記憶が無い。

    ただ、どうもやはりインフルエンザの感染はあったようで、災害関連死の内数百人は、インフルエンザの感染が要因ではないかと言われています。政府もインフルエンザ流行対策としてワクチンの無償投与が行われていたようです。(知らんかった。)

    確かに、避難所は脚の踏み場なく布団が敷かれ、多くの避難者が「密」の状態で暮らしてましたので、感染しない方がおかし状況であったと思う。多分、私は実家の事や高速の倒壊等物質的な被害に目が向いていたのだと思う。当時の私には見えていなかったんです。

    しかし、その後09年に季節性では無いインフルエンザ(所謂ブタフル)弱毒性でしたがパンデミックが発生しました。そして、19年には新型コロナウイルスが発生現在に至っている。感染症対策は進んいると思っていたのですが、昨年発生した能登半島地震時の避難所の風景は阪神淡路大震災時に私が見た避難所と左程変化の無いものでした。

    「インフルとかコロナ大丈夫なん?」と素人の私でも地震んから生き延びた方が心配になりました。当時の報道等調べてみるとやはり、インフルや新型コロナの避難所での感染、感染予防についての記事がありました。それでなくても、は阪神淡路大震災時より高齢者が増えています。感染が災害関連死の要因になってしまう可能性は高まっていると思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    避難所に避難できない?

    私はかなり前に「防災士」の資格を得たのですが、その時の講義に避難所の運営についてありました。直ぐに入室させず、講堂等まず区画整理では無いが、通路やエリアを設定それから避難者に避難エリアに。それも高齢者はなるべく寒くない、トイレに近いところにするとか。学んでる時は、「私が阪神淡路大震災時に見た避難所の風景と全然ちゃうやん。」って思いました。しかし、それも考えなおされているのだと思います。感染症対策を考えると、「密」な状況を避けるためには、避難民同士の間隔を開けざろう得ないと思います。

    特に、現在のように高齢者が多いと、感染が災害関連死の要因になってしまうんです。

    と、どうなるか?避難所の収容人数を減らすしか無いと思います。

    建物の耐震化が進んでいるので、阪神淡路大震災時より自宅に留まる方は多いと思いますが、帰宅困難者が多く発生、一時的に避難所に来ても、受け入れられないって事もあるかもしれません。避難所は有るが、避難出来ない人が発生するかもしれません。

    つづく…。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    し尿処理

    阪神淡路大震災時のゴミ処理で、第一段階と記載されているのが、し尿処理です。

    ライフラインが止まり、水洗トイレが使えない。しかし、生きている以上必ず毎日発生するのが、し尿だと思います。私の薄い記憶では、両親が避難してた住吉幼稚園では、裏に穴掘ってトイレにしてた気がするのですが定かではありません。

    もう一つ、トイレの記憶は、何時の頃だったか、JR住吉駅の南出口の前に仮設トイレがありました。私も使いましたが、男性用であったと思います。ただ、やっぱり汚かったですね。

    ただ、そこでトイレ使った以外、被災地でトイレにいった記憶が無い…なんでかな?

    仮設トイレ設置までに時間は掛かったようですが、設置は進んだようですが、し尿の処理、

    バキュームカーでの回収になるのでしょうが、これは遅れたのか?遅れたと言うよりも

    バキュームカーが通れないところもあったでしょうし、実際どこに仮設トイレ設置してあるのか?正確データがあったのか?かなりし尿処理は大変だったのではなかったかと思います。また、仮設トイレを清掃はどうしてたのか?その辺の情報は残念ながら持ち合わせていません。約31万人が避難所に避難。避難所だけで毎日、約31万人分のし尿が発生していたんです。避難に行かなかった人も水洗トイレが使用できるまでは、家庭でし尿の処理をするしかなかったと思います。瓦礫は地震発生後増えないと思いますが、し尿は災害発生後、水洗トイレが使えるようになるまで、毎日増えていくんだと思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    通常のトイレは望むべく無く

    阪神淡路大震災のような大規模な地震が発生すると、ライフラインは止まる。

    水洗トイレが使えなくなる。マンションで建物自体が大丈夫でも、トイレ水出ません。

    無理やり水流すのは止めた方が良いと思います。見えない処で排水管に被害があれば

    そこから排水管外にし尿が流出する事になります。後々の修繕費用が大きくなります。

    また、マンションでも低層階に住んでいるのなら、近くに仮設トイレが設置されれば

    それを使用する事は無理では無いと思うが、誰か使用していれば・・・。

    高層階にお住まいならいったいどうなるのか?エレベーター止まってたらトイレの度に階段を使う?何か無理があると思います。

    仮設トイレがが自宅のトイレと同等の衛生状態なのか?こればっかりは、中々望めないと思います。行政はし尿の回収はすると思いますが、簡易トイレの掃除は誰がするのか?

    そもそも、掃除する時の水はあるのか?仮設トイレの美化も水が無いと中々難しいと思います。

    どうすれば良いのか?

    簡易トイレの備蓄は自助として必要ではないかと思います。簡易トイレの排泄物は、どうも一般ごみで出せるようですので、簡易トイレの備蓄は自助だけでなく、災害時のゴミ問題の一助にもなると思います。ある意味、食料より重要な問題だと思います。

    つづく…。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    液状化現象

    液状化現象とは、国土交通省のHPによると

     液状化とは、地震が発生して地盤が強い衝撃を受けると、今まで互いに接して支えあっていた土の粒子がバラバラになり、地盤全体がドロドロの液体のような状態になる現象のことをいいます。液状化が発生すると、地盤から水が噴き出したり、また、それまで安定していた地盤が急に柔らかくなるため、その上に立っていた建物が沈んだり(傾いたり)、地中に埋まっていたマンホールや埋設管が浮かんできたり、地面全体が低い方へ流れ出すといった現象が発生します。との事です。

    阪神淡路大震災時には私この件については記憶がありません。どちらかと言うと、建物の倒壊、阪神高速の倒壊や長田の火災…何か本来あるべき形のモノが歪な形になっている。

    耐えがたい違和感でした。しかし実際は液状化現象は発生していたわけで、私の実家のあった付近がたまたまそうではなかったようです。

    阪神・淡路大震災による液状化現象は、神戸市のポートアイランドをはじめ、芦屋市、西宮市の埋立地で多くの被害が報告された。これらの埋立地で液状化した土の大部分は「真砂土(まさど)」といわれる六甲山地の山砂であった。河川構造物の被害は、沖積層の厚いところ・旧河道を横切るところなど計355件におよび、淀川下流左岸では、基礎部の液状化により堤防が約2.0kmにわたって崩壊、津波が発生していれば大阪市中心部が浸水する恐れもあった。淀川の堤防の話は知りませんでした。

    東日本大震災時私は東京の本社で防災担当だったのでが、東北から離れた千葉県浦安市で液状化現があった事を記憶してます。社員が住んでいてどうも被害にあったって。

    震度5強くらいでも、地震動の継続時間が長かったこと、本震後に大きな余震が頻発したこと、埋め 立てに用いた土の性質などが複合して影響しているようです。

    例え建物耐震化していたとしても液状化現象が発生すれが建物が傾いてしまう。

    建物の耐震性があっても液状化現象で傾けばその後の経済的負担は大きい。

    裁判もあったよいうですが、住民敗訴だったようです。

    地震の振動には耐えられたが、その後の津波や液状化現象…中々一筋縄ではいかぬようです。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    「真砂土(まさど)」

    これは、阪神淡路大震災時や東日本大震災時では無く、違う事で聞いた記憶がありました。

    2014年8月豪雨による広島市の土砂災害。

    2014年8月19日夜から20日明け方にかけて、広島市安佐南区八木・緑井・山本および安佐北区可部を中心としたごく狭い範囲に集中豪雨が発生。「数百年に1回程度よりはるかに少ない確率」で発生した記録的集中豪雨。線状降水帯が発生し、3時間降水量は200ミリを超え、同時多発的に大規模な土石流が発生した。この時の土砂が「真砂土」。

    広島県の山地は、主に広島花こう岩といわれている岩石から出来ているそうです。広島花こう岩は、長い間、雨や風にさらされると「真砂土」と呼ばれる砂のような土に変化していきます。この「真砂土」が、水を含むと非常にもろくて崩れやすい性質を持っています。このため、斜面の表面を「真砂土」が広くおおう広島県では、土石流やがけ崩れなどの土砂災害が起こりやすいそうです。線状降水帯が発生するような想定外の豪雨だったとは思いますが、地質的にみると土砂災害のリスクはそもそも高かったのではないかと思ってしまします。どうも、住む所を選ぶ時には、建物の耐震性だけでなく、地質やハザードマップを確認する必要があるようです。

    つづく…。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    災害関連死

    災害による直接の被害ではなく、避難途中や避難後に死亡した者の死因について、災害との因果関係が認められるものの事を言うようです。

    阪神淡路大震災当時は、聞いた記憶が無い。

    どちらかと言うと、地震での直接死とそれを防ぐ事の対策が主だった気がします。

    実際、阪神淡路大震災の死亡者数は、6,434名と言われています。

    震災による死亡者の9割以上は死亡推定時刻が当日6時までとなっており、ほとんどが即死状態だったとされている。と、なると約1割が災害関連死と想定できる。

    直接死の原因も、死因を調べて初めて「圧死」と言うのがわかり、それに対する対策が急務であったと思います。

    で、その後なのですが、

    私の記憶では、中越地震だったと思うのですが、エコノミークラス症候群と言うのが

    報道され災害関連死が注目された気がします。

    2004年10月23日中越地震:直接死:16名 災害関連死:52名

    2011年3月11日東日本大震災:溺死:14,308名 災害関連死:3,802名

    2016年4月14日熊本地震:直接死:50名 災害関連死:218名

    2024年1月1日能登半島地震:直接死:228名 災害関連死:261名

    どうも、地震自体では無くその後の避難所や仮設住宅等、生活の変化で亡くなられた方の割合が増加している気がします。大規模地震の発生は日本で生活している以上避けられないものだと思います。東日本大震災や今後発生が危惧されている南海トラフ地震での津波。

    逃げる以外に手段は無いと思います。逃げて何とか助かった生命が、その後の生活の変化で亡くなる。何か遣り切れない思いが残るんです。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    エコノミークラス症候群対策

    厚生労働省のHPでは、

    食事や水分を十分に取らない状態で、車などの狭い座席に長時間座っていて足を動かさないと、血行不良が起こり血液が固まりやすくなります。その結果、血の固まり(血栓)が血管の中を流れ、肺に詰まって肺塞栓などを誘発する恐れがあります。とあります。

    避難所での生活を避けるため、車中避難をされた方や、高齢等で運動が著しく低下等。

    災害関連死の中でエコノミークラス症候群で亡くなる方はいるようです。

    地震自体で助かった生命、地震後「自助」の一つとしてエコノミークラス症候群予防は必要ではないかと思います。厚生労働省のHPの受け売りになってしまいますが、

     予防のためには、
       (1) ときどき、軽い体操やストレッチ運動を行う
       (2) 十分にこまめに水分を取る
       (3) アルコールを控える。できれば禁煙する
       (4) ゆったりとした服装をし、ベルトをきつく締めない
       (5) かかとの上げ下ろし運動をしたりふくらはぎを軽くもんだりする
       (6) 眠るときは足をあげる
      などを行いましょう。

     つづく…。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    震災備忘録:阪神淡路大震災

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    マニュアル

    どこの企業も自治体も、災害時のマニュアルを作成していると思います。

    多分、過去の地震時の経験を鑑み改訂をしていると思います。

    南海トラフ地震、首都直下地震等政府等が被害想定だしてますので、それを元に対策立てたり、また大きな建物では消防法で防災計画書提出義務がありますので、より詳細な計画が立案されていると思います。マニュアルに記載されている事は概ね正しい事が記載されていると思います。ただ、実際に災害が発生した時にマニュアル通りできるか?は別の話で、

    例えば、高齢化。自治体が避難所を開設していたとして、果たして辿り着けるのか?

    マンション住まいなら、新耐震なら倒壊の危険は少ない。しかし、ライフラインは止まる。

    水が無くなった。避難所に行けばもらえる。しかし、エレベーター停止。階段で降りる事はできるかもしれないが、水持って階段上がれるのか?また、津波や土砂災害の危険があり避難の必要があったとして。走れるのか?高齢化により、マニュアルに記載している事ができない住民が増加しているのではないか?地震自体では建物の安全性が向上しているので

    亡くなる方は少なくなるかもしれません。しかし、その後どうすれば良いのか?

    自宅で孤立し助けを呼べない住民や阪神淡路大震災時や能登半島地震の時の避難所では

    能登半島地震の時のように災害関連死が増える気がします。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    企業のマニュアル

    どこの企業も「生命最優先」であると思います。

    南海トラフ地震、首都直下地震では多分、企業所在地と従業員の自宅はほぼ同じくらいの震度になると思います。従業員の安否の確認が最優先になると思いますが、

    新型コロナ以降テレワークが増加しています。そうなると、会社で勤務してるより自宅で被災する従業員が増える事になります。建物は大丈夫だったとして、震度6や7で揺れた部屋の中はどうなるか?私は阪神淡路大震災時に、奇跡的に倒壊しなかった木造ぼろ長屋の自宅に入りましたので、少しは想像できます。会社にいた方が安全なのではないかと思います。

    会社が安否確認のメール等を従業員に送信できたとして、従業員から「負傷」と返信来た場合、次どうするか決まっているのか?ただ、返信の数カウントするだけでは駄目だと思います。安否確認の情報から次に何をなにをするべきか?負傷者がいた時は?建物がもし倒壊していたら?最悪、返信無い時は?システム導入すれば全て解決できる訳では無いと思います。また、マニュアルにも様々な対策、要員が記載されていると思いますが、テレワークが多いと、想定した要員がいないという事も考えられます。それに企業で働いている従業員も高齢化してるんです。最悪の事態を想定したマニュアルをどれだけの企業が作成してるのか?作成していることを願う。

    つづく…。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    高齢化

    こればっかりは、どうしようも無いことなのかもしれません。

    1995年、阪神淡路大震災の年の高齢化率は(65歳以上の人口の比率)は、約15%だったそうです。現在はどうか?2024年の高齢化率は、29.3%…30年で高齢化率は約倍になった事になります。今よりも若い人が多かった事になります。

    阪神淡路大震災時の救助活動は、7割弱が家族含む「自助」、3割が隣人等の「共助」。

    「公助」である救助隊による救出は数%…に過ぎなかったようです。

    そう、阪神淡路大震災時はまだ、救助活動ができる若い人が多かった。

    確かに、私も両親から倒壊した建物から近隣の住民で救助した話は聞いた記憶があります。

    「自助」と「共助」が機能していた。それでも、多くの方が亡くなったのです。

    大規模な地震を経験した事のある人はいなかったのではないでしょうか?

    しかし、1945年の空襲を経験した方、実際に戦地に行っていた方がまだ、ギリ動ける年だった。生命の危機を経験し乗り越えた人がまだ当時いたんです。

    それが、初めての大規模な地震を経験しても、「自助」「共助」が機能した遠因ではないかと思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    高齢化前提の対策

    一年前の能登半島地震、能登半島の高齢化率は約50%。二人に一人が高齢者という事になります。且つ、人口が少ない過疎化であった。

    また、耐震化率も輪島市で約45%、穴水町で約48%、珠洲市で約51%でした。

    国土交通省が2018年に推計した全国の住宅の耐震化率は約87%。全国平均よりも

    耐震化率は低かった。阪神淡路大震災時よりも、「自助」「共助」が機能しにくかったのではないかと思います。

    少子高齢化が「自助」「共助」に与えるインパクトは大きいと思います。

    ただ、残念ながらこの状態が解消される兆しは無い。

    唯一、阪神淡路大震災時より新耐震の建物は増えている。

    阪神淡路大震災時の死亡の一番の原因は、建物倒壊等による「圧死」でした。

    建物倒壊のリスクは低下していると思います。但し、自分が負傷した、また近隣で負傷者がでた等、「自助」「共助」は阪神淡路大震災時のレベルは望めないと思います。

    「公助」が来るまで、高齢者がどう生き延びるか?

    私も後数年もすれば高齢者の仲間入りです。

    自ら生き延びるために思案中の毎日です。

    つづく…。

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    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    家庭の防災の備え考②

    ちょっと調べてみました。

    地震時のヘルメットの普及率は、20%にも満たない状況のようです。

    ただ、公立学校(中学高校含む)19年3月時点(ちょっと古いデータです。)東京74%、静岡78%…学校で生徒を守る為のヘルメットは家庭に比べても普及しているようです。

    つまり行政は、大規模地震時、頭を守る事が重要である事は認識しているのではないかと思う。自転車でさえ、努力義務ですがヘルメット着用が法律で定めされました。

    防災用のヘルメット昔なら中々買うところが無かったかもしれませんが、今ならネットで直ぐに買えますし、配達までしてくれます。買う為の障壁は低くなっていると思うのですがね。企業は、安全配慮義務がありますので、災害発生時に従業員の安全を確保するため、適切な措置を講じる必要があり、そのため、ヘルメットが備蓄されている企業は多いと思います。そうなんで、会社と学校にはヘルメットはあるのですが、家庭にだけは無いんです。

    家庭だけ、大規模地震時の頭部を守る事がおざなりになってはいないか?

    まぁ、私別にヘルメット屋では無いのですが、気になるんですよね。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    バイアス

    バイアスとは、偏りや偏見、先入観を意味し、認識の歪みや思考の偏りを表す言語として使用されています。自分の思い込みや前例といった要因から非合理的な判断に繋がる恐れがあるといわれています。その中に「正常性バイアス」があります。「正常性バイアス」とは、予期せぬ事態に遭遇したときに「自分は大丈夫だろう」という先入観やバイアスが働き、正常の範囲だと思い込んでしまう事をいうそうです。そう、大規模地震が発生しても、会社や学校ならヘルメット被らなければならない状況になるが、家庭にいれば「大丈夫」だろうって。どうして家庭だと、安全だと?どこに根拠があるんでしょうか?

    災害時は生命最優先だと思います。頭部の保護、家庭でも必要があるのではないかと思います。

    つづく…。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    家庭の防災の備え考

    ここの所、宮崎県沖で地震が発生し、南海トラフ地震ついての報道がみられます。

    その関連になるのか、家庭での防災備蓄が伝えられたりしています。

    だいたい「食料」が捉えられているようですが、「食料」が必要になるには、

    まずもって大規模地震が発生しても「生き残っている」って前提があります。

    どうして、生き残っていられると言えるのか?

    確かに、阪神淡路大震災時より大規模地震でも倒壊しない建物は増えていると思います。

    しかし、揺れるんです。家具やテレビ、冷蔵庫倒れたり、飛んできたりするんです。

    奇跡的に倒壊しなかった私の神戸市東灘区にあった実家。部屋のなか靴脱いで入るの無理でした。食器とかも割れてましたから。そのような部屋の状況からスタートになるとおもうのです。死んでしまったら、食料備蓄してもしれは、他の人のためになってしまうと思うんですよね。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    まずは生命最優先の備え

    企業ではオフィスのキャビネット等転倒防止策はとられていると思いますが、

    家庭では多分少ないかと思う。地震発生時に直ぐにヘルメット被るなんて事も

    困難だとは思うが、家から外に出る時は、何が落下してくるか分からないですし、

    一度避難してから自宅に戻った時も何が落下、倒れてくるか分からないです。

    私はヘルメットは必要だと思います。後、枕元に防災用スリッパ。素足で玄関まで辿り着くのは至難の業かもしれません。で、トイレと水。

    水洗トイレは水道止まると使えません。簡易トイレは必要だと思います。

    水、エコノミークラス症候群防ぐにも、もし負傷した時傷口洗うにも水は必要だと思います。

    食べれなくても、水分補給できていれば暫くは生き残れると思います。

    食料はその後だと思うんですよね。

    あっ、アルファ米備蓄している方多いかもしれません。

    あれ、基本お湯を入れて食べるのですが、ちょっとした事で水でも食べられます。

    つづく…。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    行政も被災する。

    阪神淡路大震災にしろ能登半島地震にしろ、大きな地震では被害が発生する。

    負傷したり家屋が倒壊したり。その中には、行政で働く人も含まれます。

    役所で働いている人、警察官、消防士、自衛官等。その方々に直ぐに支援ができるのだろうか?使命感で業務を遂行する方もいると思いますが、平時のようにはいかない。

    平時とは違う対応をしなければならず、中々、県、市町村からの指示や住民からの支援要請にはこたえられない。行政で働く人は、決してスーパーマンでは無い。被災者と同じ住民なのである。24時間365日不休で働く事は無理なんです。

    災害発生後の72時間は、「黄金の72時間」「72時間の壁」と呼ばれ、人名救助のタイムリミットの目安と言われています。そこで現地の行政だけで万全の体制で人名救助は無理なのです。阪神淡路大震災でも人名救助は、家族を含む「自助」が70%、「共助」が20%、

    「公助」は10%。現場では「公助」を待つ余裕はありません。また行政も被災している以上、直ぐに動けないんです。別に行政の方持つ訳では無いですが、大規模災害発生時にはわが身を守る事ができるのは、自分なんです。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    行政を疲れさせるな。

    何れ、行政も動きだします。役所の方も、警察官も消防士も自衛隊も。

    ただ、彼らも疲れるんです。当然です。人間ですから。

    そのためには、彼らを疲れる前に、業務を交代して実施できる要員を被災地外の行政機関から送り込む事が重要ではないかと思います。被災者の方を早く助けたいのであれば、行政で働く方々に、長時間勤務、不休の勤務をさせてはいけないと思います。

    行政の仕事を維持するためには、被災地外の行政からのマンパワーは必須だと思います。

    行政の機能は維持できてると、被災者の方々が思えればそれが、復旧、復興に繋がる事だrと思います。

    つづく…。

  • 震災備忘録:阪神淡路大震災 

    1995年1月17日以降の日付の無い記憶

    阪神淡路大震災とは

    1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

    兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

    犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

    あれから、もう30年も経過したんですね。

    あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

    天災は忘れた頃にやって来る

    阪神淡路大震災時から30年、能登半島地震から1年。

    改めて思います。「天災は忘れた頃にやって来る」と。

    神戸で生まれ育った私は、地震の記憶はありませんでした。

    あんな大きな地震が神戸で起きるとは全く考えてませんでした。

    能登半島地震にしても、地震は頻発していたようですが、ここもあそこまで

    大きな地震が発生するとは思っていなかったと思います。

    勝手に「大地震なんて起きない」って思い込んでいたんです。

    過去に地震の痕跡があったとしても、「今じゃないだろう。」とか。

    ある意味、自然の方が賢い、自然に勝てなかったと言えるかもしれません。

    しかし、この30年間どれだけの地震があったか?

    もう、想定外とは言えない時期に来ていると思います。

    もう「忘れた頃」と言えないんです。

    震度6~7の地震が発生したらどなるか?

    過去の地震が示唆していると思います。

    生き残る術は、あると思います。

    さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

    発災時は自助しか無い

    発災時は、自分の身は自分で守るしか無いと思います。

    新耐震に建物は増加していますので、倒壊する建物は減少していると思いますが、

    それは、単に建物が地震に耐えらるって事で、建物の躯体物まででは無い。

    天井板の落下や排水管の破損は十分可能性があると思います。

    それに家具。私の実家、そうあの阪神淡路大震で倒壊しなかった、木造ぼろアパート。

    部屋の中は脚の踏み場も無い状況でした。家具や冷蔵庫は倒れ、食器や本が散乱。

    赤い紙貼られていなかったとしても、直ぐに住める状況ではありませんでした。

    その揺れに耐えないといけなんです。建物大丈夫でも。

    自分か助からないと、他人を助けられないんです。

    で、生き残る事ができたら、そこから被災生活が始まります。

    ライフラインも止まります。電気は止まりますので、明かりが無い。

    水も停止します。飲料水、トイレもつかえません。

    数日は耐えられるかもしれませんが、ここからは共助、公助が必要になって来ると思います。

    行政も被災しますから、被災地外からの公助が来るにも直ぐにとは言えまい。

    だから、公助が来るまでは、自助で凌ぐしかないのです。

    まずは、生命最優先のためには何をしておけば良いか?

    考えてみてはどうでしょうか?

    つづく…。