震災備忘録:阪神淡路大震災 

1995年1月17日以降の日付の無い記憶

阪神淡路大震災とは

1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

あれから、もう30年も経過したんですね。

あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

天災は忘れた頃にやって来る

阪神淡路大震災時から30年、能登半島地震から1年。

改めて思います。「天災は忘れた頃にやって来る」と。

神戸で生まれ育った私は、地震の記憶はありませんでした。

あんな大きな地震が神戸で起きるとは全く考えてませんでした。

能登半島地震にしても、地震は頻発していたようですが、ここもあそこまで

大きな地震が発生するとは思っていなかったと思います。

勝手に「大地震なんて起きない」って思い込んでいたんです。

過去に地震の痕跡があったとしても、「今じゃないだろう。」とか。

ある意味、自然の方が賢い、自然に勝てなかったと言えるかもしれません。

しかし、この30年間どれだけの地震があったか?

もう、想定外とは言えない時期に来ていると思います。

もう「忘れた頃」と言えないんです。

震度6~7の地震が発生したらどなるか?

過去の地震が示唆していると思います。

生き残る術は、あると思います。

さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

発災時は自助しか無い

発災時は、自分の身は自分で守るしか無いと思います。

新耐震に建物は増加していますので、倒壊する建物は減少していると思いますが、

それは、単に建物が地震に耐えらるって事で、建物の躯体物まででは無い。

天井板の落下や排水管の破損は十分可能性があると思います。

それに家具。私の実家、そうあの阪神淡路大震で倒壊しなかった、木造ぼろアパート。

部屋の中は脚の踏み場も無い状況でした。家具や冷蔵庫は倒れ、食器や本が散乱。

赤い紙貼られていなかったとしても、直ぐに住める状況ではありませんでした。

その揺れに耐えないといけなんです。建物大丈夫でも。

自分か助からないと、他人を助けられないんです。

で、生き残る事ができたら、そこから被災生活が始まります。

ライフラインも止まります。電気は止まりますので、明かりが無い。

水も停止します。飲料水、トイレもつかえません。

数日は耐えられるかもしれませんが、ここからは共助、公助が必要になって来ると思います。

行政も被災しますから、被災地外からの公助が来るにも直ぐにとは言えまい。

だから、公助が来るまでは、自助で凌ぐしかないのです。

まずは、生命最優先のためには何をしておけば良いか?

考えてみてはどうでしょうか?

つづく…。

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