1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
公助
今一度、阪神淡路大震災の時の事を思い出してみると。
地震当日、私は現地神戸市東灘区住吉に辿り着いた。
で、警察で避難所は、住吉小学校・住吉中学校と聞いた。
実家から近い住吉小学校に両親探しに行ったが見つからず。
両親や近隣住民は、神戸市立住吉幼稚園に避難してた。
避難する場所はあった。ただ、私の記憶が無いだけかも知れないが、避難所に避難民のための何か備蓄は無かった気がする。住吉幼稚園は避難所に指定されていなかったから当然何も無かったと思う。両親から聞いた話では、夜明け前の地震、暗闇の中住吉幼稚園に避難。
で、夜が明けて、皆一度家に帰ったそうです。皆、幼稚園に戻って来た時には、炊飯ジャー持ってきてたとか。そう、ジャーの中にご飯あったんです。布団も持ってきた。私が幼稚園で見たのは、布団が敷き詰められた教室でした。そう、住吉幼稚園には災害時の備蓄は無かったのだと思う。ただそれが特別に変なのか?って言うとそうとも言えない。
その後の地震後の避難所の映像見ると…何か、阪神淡路大震災時と変わって無いような気がする。当時より頑丈な建物が増えているので、地震での死者は減るかもしれません。
せっかく生き残った生命が、その後の生活の変化で亡くなられる方が多くいるのは
何か人災的な面がある気がします。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
公助は重要
阪神淡路大震災での死亡原因は、圧死・窒息死が約77%、建物倒壊を含めると
約92%が地震発生から14分以内に亡くなられていると言われています。
助けたくても助けられなかった方が多かった。ただ、以前も書きましたが
阪神淡路大震災で亡くなられた方は、6,434名内災害関連死は912名だそうです。
東日本大震災で亡くなられた方は、15,859名内災害関連死は3,802名だそうです。
能登半島地震で亡くなられた方は、462名名内災害関連死は235名だそうです。
災害事態では助かった生命がその後の環境の変化等で亡くなられた方がいる。
あまりこんな計算はしたくありませんが、
阪神淡路大震災 912名÷6434名=14.2%
東日本大震災 3,802名÷15,859名=24.0%
能登半島地震 235名÷462名=50.9%
災害後に亡くなられた方の割合が増えているのです。
何か、公助の基本的な部分は変わっていない気がします。
高齢者が増加している以上、公助の在り方も変わっていかなければならないのではないか?長期間、学校等の避難所で生活する事自体、危険があると思うんですよね。
そう言えば、関東大震災時の避難所の写真も見ましたが、何か今とあまり変わり無いって感じなんですよね。

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