震災備忘録:阪神淡路大震災 

1995年1月17日以降の日付の無い記憶

阪神淡路大震災とは

1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

あれから、もう29年も経過したんですね。

あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

実家

実家は倒壊しなかったんです。だから、両親や同じ長屋に住んでた人無事だったんですけど。

しかし、なぜ倒壊しなかったのか?多分、1965年か6年くらいに近所のアパートから引っ越ししたと思います。その頃には、すでに幼馴染が住んでいたので、1950年台後半にはその長屋あったと思います。そう震災時には築40~50年の木造住宅だったんです。

内閣府のデータによると、建物の被害は1981年以前の建物に大きく、現行の建築基準法・同施行令が改正された1981年を境として建物の耐震性大きな差があることが指摘されたとある。完全に旧耐震の建物でした。隣のプレハブっぽいアパートは倒壊、その隣に一戸建ても倒壊…どうして倒壊しなかったのか?これがず~って謎のままでした。建築に詳しい方なら分かったかもしれませんが、ぜんぜん詳しく無いです。

40歳代の頃、本社で防災担当していた時、ある大学の先生のお話を聞く機会がありました。

そこで、新耐震と旧耐震では、「壁量」が違うってお話がありました。壁量?、実家の間取りを思い浮かべました。1階は4畳半、台所、トイレ、風呂、階段、階段の下は押し入れ。2階は、6畳間に押し入れとモノ入れ、3畳間に押し入れ。今の建物と違い、収納スペースが多かったです。窓はベランダの様なものは無く、体の上半身が出る程度の窓…。あれっ?なんか壁と柱多くないか?狭い土地に狭い5件長屋その1件ごとに、壁・柱・壁・柱…。

私、意を決してその大学の先生に質問しました。阪神淡路大震災で東灘区の実家が被災したこと。旧耐震の木造アパートで倒壊しなかった事。そして間取り。先生からは、やはり壁量と柱が多いのが倒壊しなかった可能性として高いとの事でした。正解では無いのかもしれません。先生もいきなりの質問で私の話しかデータ無いですから。それでも、何かず~っと心に引っかかっていたものが取れた気がしました。「貧乏やったから助かったんか?」

私の両親は、生かされたようです。この震災では。

さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

先ずは、生き残る術を

前回書きましたが、阪神淡路大震災での死因では圧死が多かった。

就寝中に地震が発生し、家具類が倒れて来た。体を圧するものがあった。

現在の住宅を阪神淡路大震災時より当然、新耐震の住宅が多いので建物の倒壊は少なくなる可能性が高いと思います。ただ、現在の建物って私の実家と比較すると、収納スペースが少ないと思います。その為、家具類が必要になる。建物の倒壊よりも、室内の家具類の倒壊が気になります。そんな事考えているせいでしょうか?私、転勤するとき、収納スペース多さが気になるんですよね?

つづく…。

東映プラザ、三宮センターにあった映画館ですね。

燃えよデブゴン、1981年公開。

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