震災備忘録:阪神淡路大震災 

1995年1月17日以降の日付の無い記憶

阪神淡路大震災とは

1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

あれから、もう29年も経過したんですね。

あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

その後の私

何の因果か、40歳代10年程、会社で防災担当をする事になったのですが、

その時、防災士の資格とったり、社外の勉強会に行ったりと、色々学んだのですが

阪神淡路大震災の話もありました。

犠牲者6,434名の内、直接死は5,483名。この直接死の方はほぼ当日、即死に近い事との事。窒息死、圧死が3,979名(約73%)だったとの事でした。

圧死って何なんだ?当時の講師の方が例え話で言ったのは、「寝ているところに200㎏近いお相撲さんが、ゆっくり胸の上に乗ってくるのをイメージしてください。」でした。

そうすると胸郭が圧迫され呼吸ができなくなり、窒息すると。で、ほぼ即死になるとの事でした。お亡くなりになられた方の遺体の写真も見たのですが、大きな外傷が無かった写真がありました。当時は古い建物が多く(私の実家もですが)、真冬の5時46分52秒。

殆どの方がまだ布団の中で就寝中だったのではないかと思います。その布団の上に家具だの倒壊した家が落ちてきたので、そのまま身動きできず亡くなられたのかと思います。

長田の様に大火に襲われた街もありました。新長田の辺り、子供の頃、父方の爺さんが住んでいて何度か遊びに行った記憶があります。街全体が焼失してしまう。能登の地震の輪島の朝市の光景を見ると思い出してしまいます。ただ、あそこまで燃えてしまうと、ご遺体みても(ほぼ遺骨の状態のようですが)焼死なのか亡くなってから火災に会ったのか不明なケースがあるようです。

さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

被害想定は変わる。

当時の神戸と今の神戸では、被害想定は変わってくると思います。

古い木造家屋が少なくなっていますから、家屋の倒壊や火災は減ると思います。

平面な被害は減る可能性があります。ただその変わり、マンションが増加していますので、縦方向への被害が増える。ライフラインが止まった時、高層マンションで怪我人が出た時に救助の行けるのか?高層階居住者がライフライン止まった中で、階段での往来での生活は可能なのか?ましてや当時より高齢者が増えているのである。所謂、災害弱者は増加しているのである。そして、当時なかった新型コロナのような感染症…。

被害想定が変わればその対策も変えなければいけないと思います。

過去の被害が現在に当てはまる訳では無いのです。

新聞会館裏にあったアサヒシネマ。確か、名画座だった気がするのですが、違ってたらごめんなさい。子供には名画座って敷居が高かった。多分、大学生くらいの時のチラシかな?

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