震災備忘録:阪神淡路大震災 

1995年1月17日以降の日付の無い記憶

阪神淡路大震災とは

1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

あれから、もう29年も経過したんですね。

あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

その後の私

両親は何とか仮設住宅に入居できる事になったのですが、仮設は仮設なんで何時かは出なければなりません。年金生活の両親、情けないが私も大した貯金は無かった。

復興住宅に申し込みました。しかしこれがまた中々決まらず…。

まぁ、私はサラリーマンなので、定期の異動があるのですが、会社には両親の事情を話、仮設から出れるまでは大阪にと希望だしたのですが、叶わず、98年私は仙台に異動になりました。

両親は翌年、復興住宅に入れることができました。約4年、仮設住宅生活でした。

よくあの狭い住環境で耐えれたと思います。

引っ越しの時は、仙台から戻りました。引っ越し先は、隣の灘区の、かなり急な勾配の坂の先にある新築マンションでした。一棟借上げだったのでしょうか?老夫婦二人には広すぎるくらい広いマンションでした。取り合えず、これで両親の生活は何とかなったかと思いました。思ったんですがね、3年後、父親は自殺しました。

さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

諸行無常

正直、ここから先の事はまだ書ける気がしません。

何時かは書ける時が来るとは思いますが、今はこの件はここまで。

阪神淡路大震災で亡くなられた方は、関連死を含めれると、約6,400名。

当然、私の父親は含まれていません。

しかし、住環境が変わり、人間関係が変わると、このような悲惨な結果になる事もあるのです。私は、うつ病になってしまいましたが、私の中で自殺と言う選択肢は無くなりました。

つづく…。

これは、地震よろとっくの昔1978年に閉館になった。神戸新開地にあった聚楽館のチラシですね。私が行ってた頃は、古くて、綺麗とは言えない映画館でしたが、

完成が1913年、その頃の神戸の繁華街は、三宮ではなく新開地だったようです。

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