1995年1月17日以降の日付の無い記憶
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
西宮辺りから徒歩で十数キロ、神戸市東灘区まで行ったって事は、また帰りも徒歩で十数キロ西宮辺りまで歩く事になるわけです。但し、帰りは日が暮れてきますので、細い道や知らない道を通るのは、まだ瓦礫がありましたし停電で暗く足元おぼつかない中、余震なんかあったら洒落にならないので。国道を辿る事にしました。国道43号線、そう、あの阪神高速が倒壊した真下を走る国道です。高速道路が倒壊場所に着きました。高速道路を支える柱が拉げて鉄筋がむき出しになっていました。「高速道路って倒れるんや…。」仕事では何回も通った高速道路です。地震の大きさを改めて感じました。
そう思っていると、倒壊した高速道路をバックにピースサインして写真撮ってるグループがいました。「何しに来たんや?この人たち?」ただ、ちょっと嫌な記憶があります。さぁ、歩こう!!って時に東の方から私の名前呼ぶ声が聞こえました。「はて?誰?」当時、私と同じエリアで営業してた仲の良かった他社のセールスでした。彼「どうないしたんですか?」私「実家が被災して片付けに着て、今から大阪に帰るところやねん。で?」彼「長田の営業所がどうなったか分からんので、永田まで行くとこです。」へっ?この時間から長田?一人で?甚だ疑問を感じましたが、お互い急いでいるので、挨拶もそこそこに別れました。確かその後、どこかで会った気がするのですが…その語の話の記憶が無い。
東に向かって歩いて行くと、日が暮れてきました。あくまでも私の記憶ですが、国道43号線を選択して良かったと思います。国道2号線は…最初に原チャリで被災地に向かった道でしたが、国道43号線よりかなり被害が大きかったと思います。
確か、甲子園まで歩いたか?無事駅に到着。来る時ほど、混雑してなかった気がします。
梅田に着き、喫茶店に入りました。そこには普段の日常がありました…。地震なんてなかった様な日常が。そこに少し汚れた服を着た私。「さっき迄の事が夢であって欲しい、これが現実であって欲しい…。」この時の違和感は強烈に残っています。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
歩く
まず、動けなければ避難できないです。そのためには、歩ける事は重要だと思います。
後、靴。当時どんな靴履いていたか記憶は無いのですが、被災した実家に入り、往復20㎞以上歩けていたのですからそれなりの靴履いていたと思います。決してサンダルや草履では無かったです。助かりましょう!!
つづく…。

提供:神戸市

コメントを残す