震災備忘録:阪神淡路大震災 

1995年1月17日以降の日付の無い記憶

阪神淡路大震災とは

1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

あれから、もう29年も経過したんですね。

あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

その後の私

震える犬から解放された私は実家を見に行くことにしました。

震災のあった日は、実家の長屋の路地を倒壊した倉庫か塞いでいましたが、

綺麗に更地になっていました。有難かったです。

家の入口の前に行きました。ドアは開いたままでした。

家の中を覗きました。震度6か?部屋の中ってここまでぐちゃぐちゃなるんか…。

驚きました。靴履いたままでないと入れません。よくこの状態でまだ夜明け前の暗い中倒壊した倉庫も乗り越えて脱出できたなと、驚くばかりでした。

冷蔵庫、洗濯機は横倒しになっていました、四畳半の居間の隅に鎮座するテレビ、今と違ってブラウン管の大きな重いテレビこいつは微動だにせずその威容を誇っているように、荒れた部屋の中にありました。このテレビ故障も無く、その後も使う事になります。

日本の家電恐るべしです。

私は取り合えず、あるモノを探しました。当時は今と違いスマホなんて無く、各家庭に黒いダイヤル式の固定電話がありました。で、その近くに親戚とかの電話番号を記載してある電話帳があるはずです。実家も電話置いてる台の引き出しにあったはず。まず、親戚達に両親の無事を連絡するためにそれを探しました。電話を置いている台、電話はありませんでした。

引き出しの中はどうか?薄暗い部屋居間のなかで引き出しの中に手を突っ込み中のモノを出してみました。「あった!」目当の電話帳無事発見できました。

さて、どうやって連絡するか?公衆電話は繋がるらしいのは身をもって知ったので、取り合えず、近くの公衆電話に行ったのですが、10円玉入れようとしても中がいっぱいなのか入らず使えませんでした。どうしたもんか?そういえば隣町の御影にNTTがあった事思い出しました。そこならなんとかなるんちゃうか?淡い期待を持ち、NTTに向かいました。

すると、NTTの前の歩道に机が出されておりその上に何台かの電話が並べられていました。有難かったです。NTTが電話を出してくれていました。まだ余り人が並んでなくて

私、親戚へ電話し、取り合えず、両親の無事を連絡する事ができました。

さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

安否確認

大きな災害があった場合は、人名最優先。安否の早期の確認が重要になると思います。

電話ですが、大規模な災害が発生すると電話会社が行政等の回線を確保するため規制します。そこに大量の通信が来るため「輻輳」(いわゆる回線パンク)が起こり電話が繋がりにくくなります。ただ、規制が行われる前なら、メールより電話の方が早く連絡できる可能性高いと思います。メールの場合、一度サーバ経由してそこから送信になりますが、電話は直節なので、その分早く連絡できます。ただメールの方が輻輳は起こりにくい、またSNS等の方がメールよりも繋がり易い例もあるようです。

平時から複数の連絡媒体での連絡方法を作っておいた方が良いと思います。

実家から掘り出した思い出の絵葉書

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