1995年1月18日の話②
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
地震の翌朝、実家はえらい事になってました。
どうやって脱出したんやろって思いました。
とにかく、両親の無事は確認できたわけで、取り敢えずの私の目標は達成できた事になりました。とは、言うものの「ここから先、ここに居て私何できるねん?」が私の正直な気持ちでした。体一つで被災地に入ってしまい、何かしようにも何も思いつきせんでした。実家から何か取り出せるかとも思いましたが、
入口になってる路地は長屋前の倉庫が倒壊して、ちょっと入るのは困難でした。
その実家なんですがね、築40年位の木造の5件長屋でした。間取りは、1階は4畳半一間と台所、お風呂、トイレ。2階が6畳、3畳二間。この古い木造の長屋が倒壊しなかったんですよね。(すぐに赤い紙は貼られましたけど)倒壊しなかった可能性の一つが思いついたのは、この後数十年後のお話しです。
結局、私は一度会社(大阪)に帰る事にしました。このまま居ても足手まといになると思いました。そこから数時間かけて会社に戻りました。上司に両親の無事を伝えました。
どうも私が神戸に向かった後、会社で従業員の安否の確認をしていたらしく、1名不明となっていたそうで…私でした。今なら通信手段もあるんでしょうけど…それ以前に会社に連絡するってとこまで頭回って無かったのが正直なところでした。
上司は「今日は、もう帰って休め」と言われ、私は、何とか会社の食堂で残っていた昼飯にありつけました。1月16日の晩飯後、最初の食事でした。特に空腹を感じることが無かったのは気が張っていたせいでしょうか?
堺の寮に帰宅の途につきました。電車の車窓からは何事もなかったような平和な景色が流れていました。さっきまでの神戸の風景が「何か悪い夢でもみてたんかな?」と思いました。
寮につき、新聞読みました。記事の詳細は忘れてしまいましたが、確か伝言板の様な紙面がありました。「部屋空いてますから使ってください」とか「毛布送ります」とか、現実に引き戻されました。張っていた気も緩んでいたんでしょうか?私は寮の部屋で一人、記事を読みながら泣いていました。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。
傷つくのは身体だけでは無い。メンタルも傷つきます。
私もそうだったのですが、震災直後、最初は気が張っていて大丈夫そうに見える人もいるのですが、メンタルは結構やられてます。だから、気がプチっと切れる前に、メタルのケアが出来る人も、災害時には必要かなと思います。
私がNLPを学んだのもしのせいだったかもしれません。
つづく・・・。

提供:神戸市

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