震災備忘録:阪神淡路大震災 

1995年1月17日の話⑧

阪神淡路大震災とは

1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

あれから、もう29年も経過したんですね。

あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

その後の私

 しばらくして夜が明けてきました。

多分6時頃だったと思いますが、

突然「避難してください!」という声があちこちで聞こえだしました。

「えっ?避難所から避難?どうゆう事?」

避難した避難所から避難しろとは? 

原因は、浜の方のガスタンクの爆発の可能性があり、

爆発した場合、避難所は被害がでるとのことでした。

避難所が若干ざわつきました。

急いで避難する被災者の方達。

前日震災で大きな被害に会いここでガスタンクの爆発なんて・・・洒落になりません。

私は何故か意外と冷静でした何かバイアスがあったのでしょう。

「ほんまかいな?洒落になってへんなー。親探しに来て探している方が死んでまうか?おいおい冗談じゃないよ。」って。

私も避難されている方々と歩いて避難をしました。

ガスタンクは御影の浜の方にあるらしく、北の方へ避難しました。

確かJRの線路を超えた駐車場へ避難したと思います。

この時、他の避難した人々を見回したのですが・・・私の知っている人は誰もいませんでした。

「いくら何でも誰も知っている人がおらんとは・・・。」

ここで初めて私「両親や近所の方がは、どこか他に避難できるとこがあったんちゃうか?」と思ったわけです。

アホです、我ながら。ここに至るまで気付かんとは・・・。

さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

認知バイアス

何の準備もなく被災地に向かった私には、あまりにも情報が不足していました。

そのため、避難場所=住吉小学校(中学校は遠いので無い)と警察で教えて頂いた情報一択になっていました。「住吉小学校しか避難する所無い!」と思い込んでしまっていたんです。

私の意識の中に「他に避難できる場所はないか?」という考えが判断ができなくなっていました。現在は当時と違い情報へのアクセスは容易になっています。ハザードマップ等正確な情報源を普段から用意しておいた方が良いと思います。

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