震災備忘録:阪神淡路大震災 

1995年1月17日の話⑦

阪神淡路大震災とは

1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

あれから、もう29年も経過したんですね。

あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

その後の私

 東神戸病院を後にした私は、暫く当ても無く暗い街中を彷徨っていました。

「どないしたらええんや?」頭のなかで呟いていたのが正直なところです。

 自分では冷静だと思っていたのですが、結構頭の中混乱していたのでしょう。

いつの間にか、私は住吉小学校に戻っていました。

 状況は変わりようもなく、停電した暗い講堂、教室に多くの避難された方がいました。

ただ、一部教室では、石油ストーブを使っていました。

私もストーブにあたりたかったのですが、被災している人のことを考えると・・・。

私はストーブのある教室に入るのは止めました。

しかし、寒かった。

私のこの時の服装は、タートルネックのセーターの上にジャンパーという軽装でした。

多分、零時頃だったと思います。

夜中に避難所で大声で両親を探すのは、実際に避難している人達を見ると憚られました。

 寒かったのですが、私は廊下で明るくなるのを待つことにしました。

私は、体育座りで廊下に座りこみました。

 流石に眠れませんでした。寒くてじっとしてられなく、時々立ち上がり足踏みしながら、

「はよ明るくならんかな?」なんて考えていました。

明るくなると・・・思いがけない事が起こってたんですよね。

さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

生命の危機を経験した方がまだまだ元気だった。

そう、それは、第二次世界大戦(太平洋戦争)です。

終戦が1945年でしたから、阪神淡路大震災は、終戦から約半世紀後となります。

まだ、戦争を知っていいる方がかなりご存命、それも結構元気な方が多かったんです。

自然災害とは違いますが、神戸も大空襲があり、街が破壊される、生命の危機を経験した方がまだ多くいらっしゃったんです。また、実際に戦地に行き復員された方もいらっしゃったと思います。そうした経験が、被災後の活動に生かされたのかもしれません。

そう言えば、私の父親は、予科練に行ってたって聞いた事があります。

今では、戦後77年、ご存命の方も後期高齢者、今後、南海トラフ地震地震や首都直下地震が発生した場合、大きな災害未経験の方が多いと思います。生命の危機にどう立ち向かうのか?心配な今日この頃です。

つづく…。

提供:神戸市

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