震災備忘録:阪神淡路大震災 

1995年1月17日の話⑥

阪神淡路大震災とは

1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。

兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。

犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。

あれから、もう29年も経過したんですね。

あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。

その後の私

私は、住吉小学校に向かいました。私の母校です、1973年に創立100周年記念行事がありましたね。あっ!今年で150周年か?閑話休題、流石に校舎は新築されていて、そりゃまー立派な校舎になっていました。ここに避難してたら無事かなって思いました。

私は薄暗い廊下を通って講堂に行きました。講堂のドアを開けたのですが・・・、薄暗い講堂の中一面に布団が敷かれた様な状況で入口を開けてもそこに布団があり誰かが眠っていました。建物は無事なようですが、足の踏み場も無く、私は、講堂入室を諦め他の教室も見て回ったのですが、同じ様な状況でした。ここで気づけばよかったのですが・・・。

私「両親以外、近所の人にも誰も会っていなかったのです。」ここで気づけば私はもっと早く両親に会えたと思います。

私は、この状況じゃ、住吉小学校で両親探すのは困難と思い、東神戸病院へ行くことにしました。寒くて暗い道、瓦礫が所々にある道を、トボトボと一人東神戸病院へと向かいました。東神戸病院に着きました。病院は非常電源があったのでしょうか?電気が点いていたと思います。ロビーは、怪我人でいっぱいでした。私、かなりごたついていた受付に向かい「すみません、○○というのですが、両親探しにきたのですが・・・。」私受付の看護婦の方の返事に固まってしまいました。

「あちらの壁に亡くなられて人の名前を貼っていますのでそれを見て下さい。ご遺体は、向かい側の公民館に安置しています。あー○○って苗字確かあったかな?」

私は、その亡くなれた人の名前が張り出されている壁に向かいました。「まさかなー、警察は亡くなった人おらんって言ってたし・・・でも、さっき看護婦さん名前あったって・・・。」

私、半分気は動転していたかもしれませんが、壁に貼られている名前を見ました。探したくありませんでしたが、両親の名前を探しました。結果は・・・ありませんでした、しかし似たような苗字はあったので、看護婦さんも間違えたのでしょう。

私、途方にくれ階段に座りこみました。暫くすると岡山県の医療機関からの救援物資が届きました。物資を下ろす人が少なく、私は物資を下ろすのを手伝いました。

物資下ろし終わった後、私が階段に座りこんでいると、看護婦さんが(さっきの人とは別の人ね)「毛布いかがですか?」と先ほどの救援物資で届いたのでしょう

毛布を差し出してくれました。しかし、私は被災者でも無く、この病院にはもういる理由もありません。私は、丁重に断り病院を後にしました。

さて、ここまでの話で気付いた事を述べてみたい。

緊急避難場所

提供:神戸市

住吉小学校は現在でも緊急避難場所に指定されているようです。

避難所の運営等については私も防災士の資格取るときに学びましたが、

阪神淡路大震災、東日本大震災、先般の能登の地震、避難所の在り方が

外国と比べても殆ど進化していない感じがします。

(多分、関東大震災も同じ感じではなかったかと思います。)

プライバシー保護、災害弱者への対応等、これだけ大きな地震を経験した国が

いつの間にか、災害後進国になってしまった気がします。(あくまで、私見です。)

少子高齢化社会となった現在、また来るであろう、南海トラフ地震、首都直下地震を考えると、如何に人の生命を助けるか?箱もの作るだけでは無い気がします。

つづく…。

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