1995年1月17日の話④
阪神淡路大震災とは
1995年1月17日5時46分52秒、阪神淡路大震災が発生しました。
兵庫県の淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の地震でした。
犠牲者は6,434人にも達し、第二次世界大戦後に発生した自然災害では、東日本大震災が発生するまでは最悪のものであったそうです。
あれから、もう29年も経過したんですね。
あの時の経験と、今となって気付いた事を書き記しておきたい。
その後の私
私は原チャリで、神戸に向かいました。大阪市内は、あまり被害が無かったようで、道路自体は特に問題無かったのですが、大渋滞でした。原チャリでもなかなか進む事ができませんでした。今日中に辿り着けるのか?不安がよぎりました。
それでも、不慣れな運転ながら、国道2号線を西に進んで行きました。確かに見慣れた様な景色のはずなのですが・・・どう表現すればいいのか中々難しいのですが、西に進むたびに「見慣れた景色」が「見慣れない景色に壊れていきました。」それがどんどん酷くなっていきました。
西に進むたびに道路もかなり被害が見られました。かなり大きな段差があったりで、原チャリを押して進むこともシバシバでした。増してや、どんどん暗くなっていきます、暗くなるのと比例して心に立ち込めた暗雲がどす黒く圧し掛かってきました。
実家の近くに着いた頃には、辺りはまっ暗でした、確か7時を過ぎた頃だったと記憶しています。正直、実家の前に行くのは怖かったのですが、実家の前の最後の曲がり角を曲がりました。
実家は・・・建っていたというか、建たされていたというか・・・。隣にあった、ほぼ築年数は同じくらいのアパートは崩れていました、実家は5件長屋で奥から2軒目だったのですが、実家の前の路地は向かいにあった倉庫が潰れ完全に塞がれていました。
何か崩れる前に、両隣が先に崩れ土台を支えていたような・・・、その為なんとか倒れなかった感じでした。でも、すぐに「全壊危険」の赤い紙貼られましたけどね。
真っ暗の中にぼんやりと、家の陰影が浮かんでいました、ただそのあたり一体に人の気配が全くありませんでした。何度か原チャリのクラクションを鳴らしてみました。
しかし、人っ子一人反応がありませんでした。「ん?、とゆーことは、どこかに避難してるか?病院か?もしくは亡くなったか?」実家の状況には呆然としたのですが、もし生き埋めとかであれば消防とか人がいるか、その痕跡くらいはあるはず。それが無い。人っ子一人居ない。私は、実家の長屋全員が死亡したとは考えられず、暗闇の中に両親の安否に一縷の望みが見えた気がしました。
ただ、そうだとしても何処にいるのかさっぱりわかりませんでした。
「どうしたものか…?」
私は、取り敢えず警察署に行くことにしました。それしか思いつかなかったんです。
さて、ここまでの話で気付いた事を述べ

提供:神戸市
安否確認
私は両親の安否が不明のため、阪神淡路大震災の被災地、神戸市東灘区に向かいました。
今なら、メールやSNS等で家族の安否を確認する事も出来ると思いますが、
1995年の携帯の人口普及率は、3.5%程度と言われているそうなので、携帯持ってる方が珍し時代であったと思います。また、災害伝言ダイヤル(171)ですがこれは電話の輻輳状態が5日間も続いた阪神・淡路大震災をきっかけに開発され、1998年3月31日から稼動を開始しなので、当時は無かったんです。当時は安否の確認が、私の様に無謀にも現地に向かうくらいしか無かったと思います。現在は、安否確認のシステムもありますし、災害伝言ダイヤルもあります。家族で安否確認の方法を決めておくのが良いと思います。その時は媒体一つに限定せず複数の方法(電話・携帯メール・SNS等)がお勧めです。
電話は輻輳前なら、メールより早いです。メールは輻輳がなさそうですが、東日本大震災の時は遅延が発生しています。SNSの方が繋がりやすかったようです。ただ、家族が高齢の場合どこまでできるのか?って事も考慮する必要があると思います。
媒体だけに頼らず、隣近所の関係が安否確認には重要なファクターになるとも思います。
つづく…。

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